ナタリー・デセイ
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ナタリー・デセー(Natalie Dessay, 1965年4月19日 リヨン - )はフランスの声楽家で、レパートリーの幅広いリリック・ソプラノおよびコロラトゥーラ・ソプラノとして世界的に著名。オペラ歌手としては、《後宮からの誘拐》のブロンデ役や《ナクソス島のアリアドネ》のツェルビネッタ役で著名。
[編集] 経歴
本名は Nathalie Dessaix と綴られる(読みは同じ)。少女時代にナタリー・ウッドへの憧れから、名前から黙字の h を落としたという。元は女優だったが、奨められて声楽をボルドー国立音楽院に学び、またトゥールーズの教会で聖歌隊員として経験を積む。1年間パリ・オペラ座の声楽教室( Ecole d'Art Lyrique )に学んだ後フランス・テレコム社主催の声楽コンクール「新しい声 Les Voix Nouvelles 」に優勝し、またウィーン国立歌劇場の「モーツァルト国際コンクール」でも覇者となる。たちまち多くの劇場から引く手あまたとなり、《劇場支配人》のヘルツ夫人や《ツァイーデ》のツェルビネッタといった役どころでリヨン国立歌劇場やバスティーユ歌劇場に、また《こうもり》のアデーレでジュネーヴ歌劇場に出演した。
1992年4月と5月にバスティーユ歌劇場において、《ホフマン物語》のオランピア役で短期間ジョゼ・ヴァン・ダムと共演する。ロマン・ポランスキの舞台演出は不評だったが、この出演を機にデセーはスター街道を上り詰めるきっかけをつかむことになり、まもなく別の演出による《ホフマン物語》にも同役で再登用され、十余年後にパリ・オペラ座で凱旋公演を行なった際にもオランピア役を演じている。
その後まもなくウィーン国立歌劇場においてモーツァルトの《後宮からの誘拐》の上演にブロンデ役で出演し、その後は《ホフマン物語》のドイツ語版の公演で、シェリル・ステューダーの代役を務めるように依頼される。1993年12月のオランピア役は、ウィーンの聴衆の心を捕らえ、プラシド・ドミンゴと地元のマスメディアは、デッセの表向き努力知らずの発声法が信じがたいと口々に唱えた。次の公演はカルロス・クライバーの指揮のもと、リヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》でバーバラ・ボニーと共演する運びとなっていたが、不幸にしてクライバーが急逝したため、この計画はお流れになった。
1994年10月にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にデビューし、リヒャルト・シュトラウスの《アラベラ》の "Fiakermilli" 役を務める。1997年9月にはツェルビネッタ役で、1998年2月にはオランピア役でメトロポリタン歌劇場に再登場を果たした。その後ウィーン国立歌劇場から、リヒャルト・シュトラウスの《影のない女》とアルバン・ベルクの《ルル》への出演を打診されるが、後者への登用を断っている。
エクサンプロヴァンス音楽祭において、初めて《魔笛》の「夜の女王」役に挑む。当初は、悪役をすることを嫌がって、夜の女王役を演じることを躊躇っていたが、指揮者のロベール・カルソンに説得されて、この役柄は違うのだ(つまりパミーナの姉妹のようなものなのだ)と考えを改めた。今では「夜の女王はこれっきり、ということがずっと続いていきそうです」と言いながら、この役柄を引き受けており、それから何年間も「これで最後の」夜の女王役に取り組んでいる。
2001年から2002年までウィーンにおける定期公演では、声の不調に悩まされ、《夢遊病の女》の上演スケジュールから降ろされた上、その後のいくつかの公演、たとえばリヨン歌劇場における《ランメルモールのルチア》のフランス語版や、コヴェント・ガーデンにおけるツェルビネッタ役も降板を余儀なくされた。この2年間デセーは舞台を去って、声帯の外科手術を受けている。2003年2月にパリで復活公演を行い大成功をおさめ、その翌月にはツェルビネッタ役でメトロポリタン歌劇場に復帰した。後者の模様は映像に収録された。
2003年の夏にサンタフェ歌劇場において壮大な演奏会を行い、ニューメキシコ州に(とりわけサンタフェ)に大いに魅了されたデセーは、翌年の定期に《夢遊病の女》を引っさげて再演することを同劇場に申し入れたほどである。総監督のリチャード・ガッデスは、2004年の夏の音楽祭の編成を見直して、その申し出を実行させた。2006年の夏には、やはりサンタフェ歌劇場に、《魔笛》のパミーナ役で出演している。
故障の再発によって再び降板となり、再々手術を受け、2005年に舞台復帰を果たすもレパートリーの見直しを余儀なくされ、幾つかのレパートリーを捨てるとともに、新たなレパートリーを取り入れる結果となった。(その例が、マスネの《マノン》のタイトルロールや、グノーの《ロメオとジュリエット》のジュリエット役、ドニゼッティのルチア役、《椿姫》のヴィオレッタ役である。)
2006年から2007年の定期公演は、《ランメルモールのルチア》と《夢遊病の女》のパリ上演や、《連隊の娘》のロンドン(およびウィーン?)上演が予定されており、2007年のメトロポリタン歌劇場では、初日の夜間公演に《ルチア》で出演したのち、《連隊の娘》にも出演することになっている[1]。2009年にはサンタフェ歌劇場で《椿姫 La Traviata 》にも出演が計画されている[2]。