ニコライ・エジョフ
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ニコライ・イワノヴィチ・エジョフ(Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ;ラテン文字転写:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日?)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察である内務人民委員部(NKVD)の長を務め、スターリンによる大粛清(大テロル)を実行したが、後に自らも粛清対象にされ、処刑された。エジョフによるテロル体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ、Yezhovschina、エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。その残忍さから「人間の顔をした怪物」あるいは小柄な体格から「血まみれの小人」と恐れられた。
[編集] 概要
1895年5月1日ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。初等教育のみを終え、1909年から1915年まで、洋服屋で助手をしたり、工場の労働者として働く。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、エジョフは、1915年から1917年まで、ロシア帝国軍で勤務する。1917年5月5日ヴィテプスクでボリシェヴィキに入党する。1919年から1921年の国内戦では、赤軍に所属し白衛軍と闘う。1922年2月から共産党の各級地方委員会書記を歴任した。1927年共産党の農産物徴発部門に移り、同部門の指導者となる。1929年から1930年まで、農業人民委員代理(農業次官)。1930年11月には、共産党の特別部門、人事部、産業部の部長を歴任する。1934年党中央委員に選出され、翌1935年党中央委員会書記に選出される。1935年2月から1939年3月まで、党中央委員会付属統制委員会議長として党員の統制に当たった。
エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとして知られる。1935年エジョフが執筆した論文では、政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容であり、これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となる。エジョフ体制下では、粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者、官僚、軍人の半数、約数十万人が反革命の容疑で粛清の対象となり、容赦ない拷問の結果、処刑や追放、収容所送りに至った。
エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として、君臨したが、走狗烹らるの言葉通り、その時代は長くはなかった。大量の粛清によって国家や経済が機能不全になり、スターリンの不興を買うようになったためである。1938年4月8日から水上交通人民委員を兼任したが、これは、確実にエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。エジョフの役割は徐々に縮小され、1938年8月22日ラヴレンチー・ベリヤが、内務人民委員代理に就任し、NKVDの実質責任者になった。11月11日スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判し、11月25日ベリヤが内務人民委員に就任し、エジョフは全ポストから解任された。
1939年5月3日エジョフはソ連共産党中央委員会の全ポストを解任され、4月10日スパイ活動、国家に対する反逆、スターリン暗殺計画の容疑で逮捕され、男色家であったと誹謗された。1940年2月4日銃殺された。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ソビエト連邦の政治家 | 1895年生 | 1940年没