デイモン・ヒル
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
活動年数 | 1992 - 1999 |
所属チーム | ブラバム, ウィリアムズ, アロウズ, ジョーダン |
出走回数 | 115 |
タイトル | 1(1996) |
優勝回数 | 22 |
通算獲得ポイント | 360 |
表彰台(3位以内)回数 | 42 |
ポールポジション | 20 |
ファステストラップ | 19 |
F1デビュー戦 | 1992年イギリスGP |
初勝利 | 1993年ハンガリーGP |
最終勝利 | 1998年ベルギーGP |
最終戦 | 1999年日本GP |
デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル OBE(Damon Graham Devereux Hill, 1960年9月17日 - )は、イギリス人のカーレーサー。「デーモン」と表記される事もある。1996年のF1ワールドチャンピオン。現BRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)会長。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 突然の悲劇から苦労続きの人生
1960年代に活躍した名レーシングドライバーであるグラハム・ヒルの息子である。父親が引退後、自分のF1チームを設立した矢先に軽飛行機事故で死亡、グラハムが自身に保険金をかけていなかったこともあり、多額の賠償金などで貧しい少年時代を過ごす。バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加して勝利を重ねるものの、二輪のレースは危険だと母親に反対された事や、デイモン自身も何か物足りないものを感じた為か、四輪の世界に転向する。モナコ・マイスターと呼ばれた偉大なる父と同じデザインのヘルメットをかぶり、デイモンは父のファンからも愛されていた。
四輪に転向し、ヨーロッパF3000選手権などに参戦したが、所属したチームがどれも体制がいまいちだったため、キャリアはぱっとしたところも無く、レース資金もままならない状態で愛妻ジョージーが内職などをして夫のレース活動を影で支えていた。
[編集] 運命の出会い
1991年にF1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして大抜擢された。前任者のマーク・ブランデルがテストドライバーを退くことを小耳に挟み、ダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話をかけたところ採用されることになった。
ウィリアムズでテストドライバーとして働き、「テストキング」と呼ばれるほど当時からセッテイングの才能をアピールした。その働きはエースのナイジェル・マンセルに「デイモンがいてくれるんだから俺はわざわざテストに参加しない」と言わしめるほどの信頼を得るものであった(自らのテスト嫌いの言い訳と取れなくもないが)。その傍ら1992年、往年の名門チーム・ブラバムでF1デビューを果たすが、既に末期的な状況に陥っていた同チームの低迷もあり、予選落ち、もしくは予選通過しても下位を走るだけの日々であった。
1993年、前年まで在籍していたナイジェル・マンセルとリカルド・パトレーゼの離脱から、ウィリアムズのレギュラードライバーに大抜擢され、アラン・プロストのチームメイトとして参戦。第1戦南アフリカGPではレース開始早々にスピンして後退した挙句に接触事故でリタイアすると言う散々な結果だったものの、その後は着実に成長を遂げ、初勝利となったハンガリーGPを皮切りに3連勝するなどの活躍を見せる。
なお、1992年チャンピオンのマンセルと、1993年チャンピオンのプロストがそれぞれウィリアムズでタイトルを獲得して引退してしまったため、1993年と1994年にヒルはカーナンバー0を付けていた。F1で、ヒルの他にカーナンバー0を付けたドライバーの例は、1973年のカナダGPとアメリカGPのジョディー・シェクター(当時マクラーレン)のみである。
[編集] チャンピオン候補へ
翌1994年、この年がヒルの運命を揺るがした。アラン・プロストと入れ替わりにエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、サンマリノGPでのセナの事故死により、ヒルは唐突にエース・ドライバーに任命されてしまったのである。
当時新進気鋭でセナと互角に渡りあうとされてたミハエル・シューマッハが一足先をいく中、懸命に優勝を重ね、シューマッハの出場停止もあって6勝をもぎ取り、最終戦直前では1点差まで追いつくものの、最終戦でヒルの追い上げにプレッシャーを受けコースアウトし、破損したシューマッハのマシンが強引にコースに戻りヒルのマシンに接触。この結果2人ともリタイアし初のワールドチャンピオンはシューマッハに奪われる。
1995年は予選の速さでは明らかに優位に立っていたものの、チームの作戦ミスや勝負弱さ、序盤戦でのマシンの信頼性の問題などから、ウィリアムズよりマシンバランスが悪かったもののレース戦略に優れたベネトンをドライブするミハエル・シューマッハにその差をつけられ、また当時のチームメイトのデビッド・クルサードにも迫られる中で、敢え無くチャンピオンを逃す。
[編集] チャンピオン獲得
1996年、開幕戦のオーストラリア・グランプリから3連勝し、順調なスタートを切ったが、前年インディ・チャンピオンであるチーム・メイト、驚異の新人ジャック・ヴィルヌーヴの追撃を受けて、チャンピオンシップの展開はもつれることとなる。
最終的にはヴィルヌーヴに競り勝ち、シューマッハやクルサード、ミカ・ハッキネンなどのライバルたちにも大差をつけて初のワールドチャンピオンを獲得。現在、親子2代でワールドチャンピオンを獲得したのはヒル親子だけで、偉大なる父に一歩近付いたのであった。
チャンピオンは、最終戦の日本グランプリでヴィルヌーヴがリタイアしたときに決定した。ヒル自身はこのレースを優勝で飾っている。
しかし、この年のイタリア・グランプリ直前、8月26日にヒルはチームから次シーズンの契約を行わないことを通告されている。これは、1998年以降ルノー・エンジンを失うことが決定していたウィリアムズ・チームが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。ヒルの契約は96年までだったのに対し、他方のドライバー、ヴィルヌーブは96〜97年の2年契約だった。97年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンだったが、結局のところウィリアムズは98年にBMWエンジンを獲得することはできず、以後低迷を続ける。
イタリア・グランプリでのヒルは、序盤ポール・ポジションから圧倒的な速さで独走するも、単独スピンでリタイアしている。
なお、このヒル解雇劇は、彼の盟友であったチーフデザイナーのエイドリアン・ニューウェイを激怒させたと言われており、この一件がニューウェイのマクラーレンへの移籍の理由の一つとも言われる。
[編集] 弱小チームへの移籍、そこで見せた驚くべき底力
翌1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。フランク・ダーニーが設計したヤマハV10エンジン搭載したマシンは、ひ弱であり、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目に。しかし、2戦目のブラジルGPではミハエル・シューマッハを従え、リタイヤするまで4位を激走。そんな中でヒルは得意のマシン開発能力を逆境の中でも遺憾なく発揮した。
モナコGPと並び、F1屈指のテクニカルコースであるハンガロリンクで開催されたハンガリーGPでは予選3位を獲得、決勝ではタイヤのブリスターに苦しむシューマッハを追い抜き、トップを快走。レース終盤にギヤボックストラブルで失速し、ファイナルラップでジャック・ヴィルヌーヴに抜かれ、惜しくも優勝は逃したものの2位に入り、過小評価するジャーナリストを含め「このレースの真の勝者はデイモン」と言わしめた。
最終戦のヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入り、前を走っていた片山右京がスピンをしなければポールポジションを取れたほどのスーパーラップを披露。ドライバーとして脂が乗っていた時期に、F1キャリアの中でもっともポテンシャルの低いマシンだったのは、皮肉だと言える。
[編集] 現役最後の勝利、そして引退へ
1998年にジョーダンに移籍。前半戦は苦戦を強いられたものの、ベルギーGPでの雨の波乱含みのレースでジョーダンに初勝利をもたらし(これはヒル本人にとって現役最後の勝利であり、また、ウィリアムズ以外のチームで挙げた唯一の勝利でもあった。そして、ウィリアムズ以外のチームでは勝てないと言う評価を覆した意味でも大きなものがあった)、最終戦日本GPでチームをコンストラクターズ4位に導いた。
1999年はチームメイトのハインツ=ハラルト・フレンツェンに圧倒されて成績もぱっとせず、年齢的な限界もあり地元のイギリスGPを最後に引退することを決意したが(実際は“イギリスGPが最後になるかもしれない”と言ったのであって、ジャーナリストが勝手に引退すると書きたてた)、このレースで一時的とは言えトップ走行をしたことからモティベーションが復活したのか、その後もズルズルと出走を続ける形で、結局このシーズン終了をもって引退することとなった。
[編集] その後
引退後はBMWのディーラー経営と、メンテナンスを含むスーパーカーのレンタルを行う会員制クラブ、P1インターナショナルを主催し悠々自適な隠居生活を送っている。2005年にはF3000に代わる新シリーズGP2のエンジン供給先であるルノーからのテスト走行を依頼され、F1時代を彷彿させる勇姿を見せた。
2006年の4月末、イギリスGPのマネジメントを行うBRDCは次期会長選挙を実施し、ヒルをジャッキー・スチュワートに代わり会長に選出。難題を抱えるシルバーストーン・サーキットの経営やF1開催の継続に向けて尽力することとなった。
[編集] 地味ながら秘められた才能
当時最強を誇ったウィリアムズ・ルノーのマシンに乗っていた時代が長かった為に、ヒルに対する評価はどうしても低く見られがちになっている。しかし、ヒルはある秀でた才能を持っていた。それは非常に有能なテストドライバーであったということである。
F1マシンの開発には、テストドライバーからのフィードバックが重要である。シミュレーションでは出せないデータを的確にエンジニアに伝える力、それは1990年代以降のF1レーサーに必要不可欠なスキルといってよい。まさにヒルは自分の才能にマッチした時代に生まれたのである。
長年にわたりヒルが開発に携わってきたウィリアムズのマシンは速く、ヒル自身のみならず、ナイジェル・マンセルやアラン・プロストのチャンピオン獲得にも貢献している。また、ヒルのセッティングはいつも的確に決まっていた。その事実を裏付けるように、ヒルが去った1997年はジャック・ヴィルヌーヴとウィリアムズのコンビネーションが圧勝すると誰もが予想していたが、当時のマシン、FW19はセッティングの方向性を見失った為か、予想に反し大苦戦を強いられたのであった。
ヒルが開発に携わったF1マシンを見ていくと、ウィリアムズ、アロウズ、ジョーダンともに、その時期だけ好成績を残していることがわかる。
レースメイキングやオーバーテイク、周回遅れの処理が苦手だったため、レーサーとしては評価が低い時期もあったが、マシンを優しく速く走らせる技術においては屈指のテクニシャンといってよい 。タイヤに優しい走り方も有名で、他のドライバーがブリスターだらけになっても、ヒルのタイヤだけはきれいなまま消耗しており、ブリヂストンの浜島裕英モータースポーツタイヤ開発部長もトラクションのかけ方の的確さを絶賛していた。またアクセルワークのうまさは天下一品で、96年に鈴鹿サーキットで行ったブリヂストンのタイヤテストに同伴していた無限のエンジニアはエンジンブレーキのかけ方が恐ろしいほどうまかったと賞賛し、別件でその場に居合わせていた星野一義は数周のっただけでマシン、タイヤの特性を把握し好タイムを連発した走りをみて「さすがワールドチャンピオンをとっただけのことはある」と語っていた。
四輪のレースキャリアが自動車免許をとった20代前半からと遅かった事などから、F1以前の目立ったキャリアーがないまま、当時最強と謡われたウィリアムズ・ルノーで実質的なデビューをしたため、当初は彼の能力を評価するのが難しかった。しかし、チャンピオン獲得後、また弱小チームでの活躍後には、そのマシン開発能力を疑う者はいなくなった。
決してチームから十分なサポートを得られずに孤軍奮闘の末、ワールドチャンピオンを獲得した事実と、20代前半で遅い四輪レースデビューというライバル達よりも圧倒的不利なキャリアの短さを考えれば、偉大な先人や同世代のチャンピオンと比べても賞賛に値すると言える。アロウズ・ヤマハ時代に見せた、開幕当初は完走さえ怪しかった程の脆弱なマシンを、短期間で優勝を狙えるほどにまで戦闘力を向上させた、その驚くべきマシン開発能力も高く評価すべきものであろう。
またどのチームメイトとも良好な関係を築いており、ハッキネンと並び人格的にバランスの取れたナイスガイであった。そして意外に思われるが、かつてウィリアムズの名物女性広報で有名だったアン・ブラッドショー(現BMWザウバーF1広報)によれば、素顔のデイモンは父グラハム似なひょうきんな性格だと言う。
その人柄と浪花節を感じさる苦労な半生をすごしたせいか日本での人気は大変高く、最終レースであった日本GPには多くのファンが鈴鹿サーキットに駆けつけた。
[編集] ミハエル・シューマッハとの確執
[編集] 1993年
日本GPで、ヒルとミハエル・シューマッハは接触、ヒルは4位入賞、シューマッハはリタイアに終わっている。このときから、シューマッハはヒルに対して辛辣な態度を取るようになる。
[編集] 1994年
イギリスGPで、フォーメーション・ラップ中にシューマッハ(予選2位)はヒル(予選1位)を追い越し、失格となる。ヒルはこのレースで優勝。
ベルギーGPでは、シューマッハがいったん優勝したが、車両規定違反によって表彰式終了後に失格となる。結果、ヒルが繰り上げ優勝。
イタリアGPとポルトガルGPは、シューマッハが出場停止処分で出走しなかった。このふたつのレースを制したのが、またもヒルであった。
激しい雨による中断で2ヒート制となった日本GPは、実質的に順位ではなくタイムを競う過酷なレースとなった。ウェットでのドライビング能力が問われる中、最後まで集中力を切らさずに走ったヒルが優勝、シューマッハは2位に終わる。このレースで、ヒルはファステスト・ラップを記録している。
こうして、序盤シューマッハの独走と思われたチャンピオンシップは、予想外にも1ポイント差で最終戦までもつれることになった。
最終戦であるオーストラリアGPで、シューマッハとヒルは衝突してともにリタイア、シューマッハは年間王者となる。このレースは、1997年ヨーロッパGPでのヴィルヌーヴとの接触とともに、シューマッハの経歴に大きな汚点を残すこととなる。
[編集] 1995年
イギリスGPにおいて、ラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとするが、プライオリー・コーナーで接触してともにリタイア。両者ともに、はっきりとした不快感を表す。
雨となったベルギーGPでは、ピットストップで順位が入れ替わる中、やはりラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとして接触、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、ヒルに対する危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。
イタリアGPでは、3位走行中のシューマッハに4位走行中のヒルが追突、ともにリタイアに終わっている。このとき、シューマッハは掴み掛からんばかりの勢いでヒルに詰め寄った。その後、デビッド・クルサードや佐藤琢磨との接触事故の際に怒りをあらわにしたのと同様で、シューマッハの意外に短気な人間性を表す事例である。このレース後、今度はヒルが執行猶予付きの1レース出場停止処分を受けた。
ちなみに、1993年のイタリアGPでは、ちょうど同じような状況でマーティン・ブランドルがアイルトン・セナに追突し、ともにリタイアしている。そのとき、マシンを降りたセナはブランドルの元に走りよった。ブランドルは「殴られるのかと思った」が、実際にはセナはブランドルの無事を確かめるために駆け寄ったのであった。
パシフィックGPでシューマッハは年間総合優勝を決定するが、それでも表彰式後のインタビューで「(スタート直後に進路を阻まれたことについて)ヒルは僕を追い出そうとした」と発言した。
[編集] 1998年
カナダGPにおいて、シューマッハとヒルはトラック上でバトルを演じる。「パスさせないよう危険な運転をした」としてシューマッハはヒルを非難。ヒルは「2位を争っていたのだから、簡単にパスさせたりはしない」と応じた。また、シューマッハにとっては逆転チャンピオンの掛かった最終戦日本GPでは、トラブルから最後尾スタートとなり怒涛の追い上げを見せるシューマッハを、同一周回で走っていたヒルが長い間先行させず、コーナーでは車1台分を空けながら抜かせない絶妙な走りを見せた。
[編集] その後
2000年2月号の「F1 Racing」誌(日本版)で、ヒルはシューマッハにインタビューを行っている。少なくとも誌面上は、険悪な雰囲気のものではなく、両者が敬意を示し合う内容となっている。また、「GRAND PRIX SPECIAL」の紙面上でシューマッハ引退についてのコメントでも1994年の最終戦であるオーストラリアGPの接触について「故意ではないと思う」と擁護する発言をしている。
[編集] デイモンに関する豆知識
- 性格や立ち振る舞いが「身近な」「親しめる」「代表的な」イギリス人ドライバーとして、イギリスで愛されイギリス国民の評判も良かった(同じくイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルは、イギリス国民が思うイギリス人ではなかったらしい)。
- 名付け親は父グラハムと同年代ドライバーのジョー(ヨアキム)・ボニエ。
- くどい顔に似合わず大の甘党である。寿司も大好物。ちなみにデイモンがワールドチャンピオンを獲得した1996年のシーズンを記録したドキュメントビデオ『デイモン・ヒル F1GP '96ワールドチャンピオン ~栄光への軌跡~』では、デイモンが醤油をつけずに寿司を食べる姿を見ることができる。
- 地味な風体と真面目が服を着て歩いてるような言動からは想像も付かないが、若い頃は「セックス・ヒトラー・アンド・ホルモンズ」というパンクロック・バンドをやっていた。ジョーダン・チームのオーナーであるエディ・ジョーダンとは、よくイベントで一緒に演奏していたようである。もちろんギターの腕はプロ級で、親交のあるイギリスHRバンドデフ・レパードの1999年発売のアルバム『Euphoria』に収録されている「Demolition Man」では、彼のギターソロを聴く事ができる。
- 音楽関係者との交友が多く、元ビートルズの故ジョージ・ハリスンとの仲の良さは有名(余談だが、応援に駆けつけた1995年のオーストラリアGP終了後、親友デイモンが優勝して上機嫌だったのか『ビートルズ・アンソロジー』の発売を公式発表の前に思わず言ってしまい“フライング”してしまった)。古舘伊知郎氏が、「顔面ジョージ・ハリスン」というフレーズを残したように顔も激似である。引退後は髪と髭をのばしているため“ジョージ・ハリスン化”は年々進んでいる。それゆえか、現役時代よりもルックス的にはカリスマ性がはるかに増している。1995年のポルトガルGPにはミック・ジャガーが陣中見舞いに訪れ、1997年はロン・ウッドの誕生日にも招かれた。
- 長男オリバーがダウン症のため、夫婦そろって慈善活動には積極的である。1999年のイギリスGPで売り上げたヒルブランドの売上全額を寄付した。
- 1994年、セナ亡きあとのウィリアムズでデイモンがマシンのあるセットアップについてチームに進言していたのに無視され続けた。フランスGPにスポット参戦したナイジェル・マンセルが同じ点に気づいて「何でデイモンの言う通りにしないんだ!早くしろ!」と一喝した。結果、デイモンはこのレースでシーズン初のポールポジションを獲得した。
- 1994年、英国の雑誌にスターリング・モスが「デイモンは親父ほどではない」と発言した記事が掲載されたため、イギリスグランプリのパドックでデイモンの姉ブジリットがモスに詰め寄った。「勝手に記者が見出しを書いてしまった。そんなつもりで言ったんじゃないんだが」とうろたえるモスに、ブリジットがすごい剣幕で「うちのデイモンのこと悪く言ったら承知しないわよ」と迫ったため母ベティが驚き「まあ、あなたスターリングに向かって何てこと言ってるの」と諫める一幕があった。
- アラン・プロストのようなスムースな走行が目標であると公言している。1995年に、引退していたプロストがマクラーレンのテストに参加した際、「僕はプロストファン」と復帰を願う発言してフランスの新聞の見出しを飾った。
- 1996年の日本GPで優勝しタイトルを決めたとき、3位入賞したミカ・ハッキネンに「君にも同じ日が来る」と一言。この言葉は2年後の鈴鹿でまさに現実になる。
- 1997年の日本GPの後、新幹線で東京に戻るとき指定席が取れず自由席も満席だったため、そのまま名古屋駅から立ちっぱなしで帰京した。父の死後、苦労続きだった“庶民派デイモン”の真骨頂である。
- 1993年に初優勝したとき、緊張のあまり表彰台で観衆に向かってお辞儀をしてしまった(デイモン・ヒル著「Grand Prix Year」より)。
- デイモンが現役だった頃、日本のF1雑誌『AS+F』(廃刊)に掲載された赤井邦彦らによるアンチ丸出しの批評に、デイモンファンが激怒。ネット上に集うファンの間でちょっとした『AS+F』非買運動を呼びかけていた。同誌のライバル誌のひとつである『F1速報』も、ヒルが在籍していた当時のウィリアムズについて、ウィリアムズが勝ってもそのレースの号は売り上げ部数が伸びないからありがたくないという見解を明らかにしていたが、『AS+F』はより露骨で、一部のライターの偏見混じりの、半ばただのこき下ろしとなっている記事を通すことが多かったため、そのスケープゴートにされがちだったデイモンのファンは、基本的に『AS+F』嫌いが多い。
- 1992年当時、ブラバムに聖飢魔IIがスポンサーとしてついていたが、そのことについてデーモン小暮閣下曰く、「ドライバーが“デーモン”ヒルだから」と笑っていいとものテレフォンショッキングで語っていた。尚、人名としての“デイモン”はDamonと表記(固有名詞のため頭の"D"は大文字)され、悪魔を意味する“デーモン”はdemonと表記(一般名詞のため頭の"d"は小文字)されるものであり、両者に意味上の関連性はない。
- “無冠の帝王”と言われた名ドライバー、スターリング・モスと誕生日が同じである。また父グラハムとフィル・ヒルは “ヒル”という同じ苗字のため仲が良かったようで、デイモンは一時期フィル・ヒルの自宅にホームステイした経験がある。
- 柳葉敏郎はデイモンファンである。
- 足のサイズがデカい(29cm)。そのため、1997年に移籍したアロウズではモノコックを当初の設計から一部変更した。
- アデレードとメルボルンで行われた両方のオーストラリアGPを制した唯一のドライバーである。
- モナコ・マイスターと呼ばれた父グラハムに対し、デイモンはモナコGPで1勝もあげることが出来なかった。1996年には、トップを独走しながらエンジンブローで好機を逸した。
- 「F1 Racing」誌(日本語版2000年2月号)の紙面上において、デイモンは歴代F1レーサーのベスト10を以下のように選出している。
1位:グラハム・ヒル
2位:デイモン・ヒル
3位:ファン・マヌエル・ファンジオ
4位:スターリング・モス
5位:ジム・クラーク
6位:アイルトン・セナ
7位:ナイジェル・マンセル
8位:アラン・プロスト
9位:ニキ・ラウダ
10位:ジャッキー・スチュワート
[編集] 経歴年表
[編集] 略歴
- 1960年9月17日生まれ、ロンドン出身
- フルネーム:Damon Graham Deveraux Hill
- 父:グラハム(故人) 母:ベティ 姉妹:ブリジット、サマンサ
- 妻:ジョージー(スーザンマリー)、子:オリバー、ジョシュア、タビサ、ロジー、ペット:犬3匹、猫1匹
[編集] レースキャリア
- 1984年 フォーミュラフォード1600 1勝
- 1985年 フォーミュラフォード1600 シリーズ3位
- 1986年 イギリスF3 シリーズ9位
- 1987年 イギリスF3 2勝 シリーズ5位
- 1988年 イギリスF3 2勝 シリーズ3位/国際F3000 スポット参戦
- 1989年 国際F3000 6戦参戦/ル・マン24時間レース出場
- 1990年 国際F3000 1勝
- 1991年 国際F3000 /F1 ウィリアムズ・テストドライバー
- 1992年 F1 ブラバム・ジャッド 2戦出場/ウィリアムズ・テストドライバー
- 1993年 F1 ウィリアムズ・ルノー 3勝、シリーズ3位
- 1994年 F1 ウィリアムズ・ルノー 6勝、シリーズ2位
- 1995年 F1 ウィリアムズ・ルノー 4勝、シリーズ2位
- 1996年 F1 ウィリアムズ・ルノー 8勝、ワールドチャンピオン
- 1997年 F1 アロウズ・ヤマハ シリーズ12位
- 1998年 F1 ジョーダン・無限ホンダ 1勝、シリーズ6位
- 1999年 F1 ジョーダン・無限ホンダ シリーズ11位、引退
[編集] 関連項目
- グラハム・ヒル
- モータースポーツ
- F1世界チャンピオンの一覧
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- 蛭魔妖一(漫画『アイシールド21』に登場するキャラクター。デイモンの名前が元ネタになっているらしい)
[編集] 外部リンク
- Damon Hill公式サイト - デイモン・ヒルが運営するBMWディーラー「Damon Hill」のウェブサイト
- P1 Prestige and Perfomance Car Club公式サイト - P1インターナショナル。デイモン・ヒルが主催する会員制自動車クラブ
- BRDCによるデイモン・ヒルのプロフィール
カテゴリ: イングランドのF1ドライバー | 1960年生 | 大英帝国勲章