片山右京
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F1での経歴 | |
国籍 | 日本 |
活動年数 | 1992 - 1997 |
所属チーム | ヴェンチュリー・ラルース, ティレル, ミナルディ |
出走回数 | 94 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 5 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1992年南アフリカGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1997年ヨーロッパGP |
片山 右京(かたやま うきょう、1963年5月29日-)は、日本のレーシングドライバー、元F1ドライバー、登山家。神奈川県相模原市出身。(しかし慶應義塾大学病院(東京都新宿区)で出生したことをもってして「東京都出身」と自称することがある)大阪産業大学工学部客員教授。通称「カミカゼ・ウキョウ」。登山・レーシング活動にはTeamUKYOで参加する。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
小学生のころから、自転車や登山にいそしむ。中学・高校は、日大三高に進学。陸上部に入部し、長距離選手として活躍。バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。ちなみに日大三高で福王昭仁(現読売ジャイアンツ2軍コーチ)と落語家の立川志らくは同期生。
[編集] レースデビュー
パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残し、1985年に全日本F3選手権にステップアップ。ランキング6位の成績を残す。
[編集] 「カミカゼ・ウキョウ」
この年の8月にフランスへと渡る。フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。
1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。同年シリーズ途中から1987年までフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集め、瀕死の重傷を負ったこともある。その恐いもの知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた。
[編集] 全日本F3000時代
1988年から全日本F3000選手権へ出場し、1989年に由良拓也率いる「ムーンクラフト」へ移籍するもオリジナルシャーシーでの参戦であったために結果が出なかったが1990年には名門「ヒーローズレーシング」へ移籍し実力を開花させる。
1991年には同チームで安定したドライブを見せ、バブル景気で参戦台数が多く、上位争いが激しかったこの年の全日本F3000選手権のチャンピオンを獲得する。
[編集] F1時代
[編集] 1992年
その実力を認められ、翌年ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦を開始した。なお、スポンサーとして全日本F3000時代のメインスポンサーであった日本たばこなどがついた。カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。因みにこの年、予備予選落ちも経験している。
- 出走回数:14戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:11位(カナダGP)
- 決勝最高位:9位(ブラジルGP、イタリアGP)
[編集] 1993年
1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍。この年は新車の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:13位(日本GP)
- 決勝最高位:10位(ハンガリーGP)
[編集] 1994年
1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り随所で速さを見せる。開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後アイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまでそのまま順位をキープするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。
しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。チームメイトのマーク・ブランデルがスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながらも7位完走の激走を見せるなど、印象的な走りを見せていただけに惜しまれるシーズンとなった。
後に、1994年に印象的な走りを見せた理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌と誤診されたことを理由に挙げている。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:5
- 予選最高位:5位(ドイツGP、ハンガリーGP)
- 決勝最高位:5位(ブラジルGP、サンマリノGP)
[編集] 1995年
1995年チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランドの携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになりチーム体制がサロ寄りになっていたことと、サスペンション(ハイドロリックサスペンション)を独自開発し油圧形式ダンパーを導入したが開発体制が脆弱で熟成出来ずに通常のサスペンションへ戻すといった事もあり低迷。ポルトガルGPではスタート直後に大クラッシュを起こし次のヨーロッパGPはドクターストップがかかり欠場する。 様々な要因でシーズンを通じて低迷。その原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。 94年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10Kgを10回上げるのと100Kgを一回上げるのは同じ」と考えていたらしい。体が一回り大きく見える度補に筋肉を付けたが引き替えに敏捷性を奪う結果となった。F1ドライバーに執拗なのは300Km走りきる間同じ動作を正確に行う筋肉であり筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行った事は自分の首を絞める結果となった。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:11位(ブラジルGP)
- 決勝最高位:7位(ドイツGP)
[編集] 1996年
1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる。(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシ(ティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。その為、右京には大きすぎるコクピットに成ってしまい対策として、シートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。
その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切り角にズレが生じてしまう事になった。(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされる事になる。この様に辛いシーズンを送る事になり、ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで飛び出した。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:12位(イギリスGP)
- 決勝最高位:7位(ハンガリーGP)
[編集] 1997年
1997年にミナルディに移籍するも、マシンの性能が決定的に劣ることもあり目立った成績は残せず、右京自身も闘志が薄れ、守りの姿勢を嫌い、同年限りでF1を引退した。
- 出走回数:17戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:15位(オーストラリアGP)
- 決勝最高位:10位(モナコGP、ハンガリーGP)
[編集] F1後
その後、1998年からはトヨタよりルマン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタTS020 GT-ONEを駆った1999年の同レースは優勝車BMW V12 LMRを終盤ファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたものの、その鬼神のごとき走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。しかも、バースト時の速度は約204mph(=328km/h)でスピンすることなく体勢を立て直した。まさに「カミカゼ・ウキョー」健在とその実力が未だトップレベルにあることを証明するレースとなった。
その後は、同じく関係に深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、パリ・ダカール・ラリーなどにも参戦している。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ」を運営している。
[編集] 登山、タレント活動
F1現役当時から登山を趣味としており、キリマンジャロなどに登頂。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、悪天候のためにあと100mのところで断念している。2006年にはマナスルの登頂に成功した。
また、近年はam/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。現役時代には子供番組「ウゴウゴルーガ」にも出演して人気を博す。他にもオリジナル自転車の開発なども行っている。
[編集] 人柄
- 『右京』の名前は、慶應義塾大学教授で叔父の片山左京が出産見舞いに来た際に命名されたものである。
- 思い立ったら行動するのが信条。フランス行きを決めた時、即座に成田空港に行きエールフランスのカウンターで「すいません、パリまで大人1枚」とチケットを所望し係員を唖然とさせた。
- 1992年F1デビュー戦後のインタビューで、目を泳がせながら「えらいところに来てしまった…」と思わず呟いた。初レースを終え、想像以上の厳しい世界だったと衝撃を受けたとのこと。当初はF1マシンの強烈な横Gに首が耐えられず、コーナリング時にヘルメットがぐらぐらと揺れるシーンが度々テレビ中継に映し出されたため、その様子を古舘伊知郎に「張子の虎走法」「赤べこ走法」と称されていた。
- 2005年のF1実況中に、過去在籍したミナルディがあまりにも遅かったため「レースする資格なし」と言ってしまった。しかしこれは決してミナルディを嫌っていたわけではなく、逆にミナルディがリタイヤした際に解説の川井一仁が「ああ、そうですか。ミナルディですか」と言ったときには、ゲスト解説の立場を忘れた怒りを垣間見せた事も人間片山右京を知る上で重要である。
- 川井「えっと、今ホームストレートで1台止まってませんか?フェラーリですか?」
アナ「ミナルディのルカ・バドエルですね。」
川井「ああ、そうですか。ミナルディですか。」
右京「あの、川井さん。ミナルディならリタイアしてもいいんですか?」
川井「いや、どの車かなって思っただけで・・・。」
アナ「片山さん、そんな事言わないで下さいよ…。」(1999年開幕戦オーストラリアGPにて)
- 川井「えっと、今ホームストレートで1台止まってませんか?フェラーリですか?」
- 2006年F1第3戦オーストラリアGP、予選PPを奪ったのはホンダのジェンソン・バトンであったが、セーフティーカー明けのラップで、後続ドライバーに次々オーバーテイクされるシーンを見て、TV解説をしていた右京は「バトン、何やってんだ」や「バトン、ヘタクソですね」とコメント。またバトンのエンジンがファイナルラップでブローし、次戦でのペナルティーを避けるため5位4ポイントを敢えて捨てレースを終えた(結果10位)姿勢に「スポーツマンシップという観点から見ていかがなものか」と疑問を呈した。
- 特にF1引退後はトヨタの支援を受けてレース活動をしていたこともあってか、F1のTV解説では同じ日本チームのホンダよりもトヨタ寄りのコメントを行うことが多い。またホンダに対して苦言を呈することも多い。
- あるインタビューで「ボクのインタビューより、みんなはマイケル(ミハエル・シューマッハ)とかのほうに行きたいんじゃない?僕は付け合せのサラダみたいだから」と語っている。そのことでシューマッハは「ウキョウのインタビューは面白い」と語っている。このエピソードが象徴するように、若い頃から海外で活躍し、外国人とのやり取りに慣れている上に洒脱な右京のインタビューは、外国のジャーナリストやドライバー仲間から人気が高かった。
- 現役時代、外国人ファンから漢字のサインを頼まれ、「どうせ『片山右京』と書いたところで、分からないだろうから」と、面白がって『広東風炒飯』と書いたことがある。
- 2004年春のオールスター感謝祭において「赤坂5丁目F1グランプリ」に招待選手として出場、芸能人相手に現役さながらの闘志を剥き出し強烈にアタック、大幅なハンディキャップを跳ね返して優勝した。優勝インタビューでは「大人気ないことをしてしまった」としきりに恐縮、反省していたが、レース中の真剣な眼差しと攻撃的ドライビングからかつての「カミカゼウキョウ」を髣髴とさせ、出演者や視聴者の評判は非常に良いものであった。
- 母校(相模原市立鹿島台小学校)を訪ね、自分の職業分野に関する講義を行なうというNHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演した際は、児童らをトヨタ・アルテッツァに載せてドリフトを体感させたあと、体育館に富士スピードウェイのミニチュアコースを作り、そのコースを児童らに自分の足で走らせ、「コースを早く走るためのコツと意味」を分からせるといった内容の授業を行なっていた。
- 近年は登山家としても有名だが、事務所のスタッフの中には、「本業」のモータースポーツでなく登山に熱中する彼に納得出来ず退社する者も出た。
[編集] 経歴年表
- 1983年 FJ1600クラスデビュー
- 1984年 筑波FJ1600 Aクラスチャンピオン
- 1985年 全日本F3(チーム:ハセミモータースポーツ)(マシン:ハヤシ322日産)最高位4位、1FL シリーズ6位
- 1986年 フランス フォーミュラ・ルノー参戦
- 1987年 フランス フォーミュラ・ルノー参戦 フランスF3 スポット 参戦
- 1988年 全日本F3000参戦(チーム:バツレーシング)(マシン:マーチ87B&ローラT88/50無限)最高位5位 シリーズ11位
- 1989年 全日本F3000(チーム:フットワーク)(マシン:ムーンクラフト040&041無限)最高位7位。国際F3000スポット参戦 同チーム同マシンにより参戦。
- 1990年 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50無限&DEV)最高位2位、1FL シリーズ5位
- 1991年 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50&T91/50DEV)2勝、2PP、2FL シリーズチャンピオン
- 1992年 F1参戦(チーム:ラルース)(マシン:ベンチュリLC92ランボルギーニ)最高位9位
- 1993年 F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル020C&021ヤマハ)最高位10位
- 1994年 F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル022ヤマハ)最高位5位 シリーズ17位
- 1995年 F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル023ヤマハ)最高位7位
- 1996年 F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル024ヤマハ)最高位7位
- 1997年 F1(チーム:ミナルディ)(マシン:ミナルディM197ハート)最高位10位、F1引退表明。
- 1998年 ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合9位
- 1999年 ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合2位
- 2000年 JGTC(GT500)参戦(チーム:NISMO)(マシン:日産・スカイラインGT-R(R34))シリーズ11位 非選手権セパン戦で優勝。
- 2001年 JGTC(GT500)TeamUKYOを設立(マシン:トヨタ・スープラ)
- 2002年 JGTC(GT500)(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・スープラ)シリーズ27位 シーズン中下田隼成にシートを譲り降板。
- 2003年 パリ・ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)ルマン24時間耐久レース(チーム:KONDO Racing)(マシン:童夢S101無限)総合13位
- 2004年 パリ・ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)
- 2005年大阪産業大学工学部交通機械工学科の客員教授に就任。交通機械工学を講義する。
- 2006年 パリ・ダカールラリー参戦予定。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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