フランソワ・トリュフォー
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フランソワ・ロラン・トリュフォー(François Roland Truffaut, 1932年2月6日 - 1984年10月21日)は、フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も感化院に放り込まれるような不良行為少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
最初の短編映画を発表したのち、1956年、ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、二作目の短編映画(『あこがれ』)演出し、翌1958年公開。1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った当時コシノールのマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年のカンヌ映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であったゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、ジュリアン・デュヴィヴィエやクロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。
フランス映画の父として慕い尊敬していたジャン・ルノワールがアメリカで失意の底に沈んでいることを聞きつけ、幾度もアメリカに渡って勇気づけ、ルノワールの死に至るまで両者は親子同然の関係を持ち続けた。また、自分自身の分身を演じ続けたジャン=ピエール・レオに対しても息子同然の扱いをしていたという。事実上父親を持たず、自身も離婚を繰り返して安寧な家庭を持ち得なかったトリュフォーにとって、アンドレ・バザンを始めとする映画を通じて関係を持った人物たちこそが本当の家族だったのかもしれない。
1984年10月21日にガンで死去。フランスに留まらぬ世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われたが、若かりし頃まるで兄弟ででもあるかのように協力し合って映画を創り上げたゴダールだけは、葬儀にも訪れず、追悼文を著すこともなかった。しかし、のちにゴダールは、死後4年経った1988年に出版されたトリュフォー書簡集に、彼からの手紙を提供した。それは、激しくゴダールを罵倒する語調のものであったが、あらたに書き下ろした序文をこうしめくくっている。「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」[1]。
[編集] 監督作品
- Une visite(ある訪問)(短編)(1954年)
- あこがれ(短編) -Les Mistons(1958年)
- 水の話(短編)-Une histoire d'eau (共同監督ジャン=リュック・ゴダール、1958年)
- 大人は判ってくれない -Les Quatre cents coups(1959年)
- ピアニストを撃て -Tirez sur le pianiste(1960年)
- 突然炎のごとく -Jules et Jim(1961年)
- 二十歳の恋 -L'Amour à vingt ans(1962年)
- 柔らかい肌 -La Peau douce(1964年)
- 華氏451 -Fahrenheit 451(1966年)原作 レイ・ブラッドベリ
- 黒衣の花嫁 -La Mariée était en noir(1968年)
- 夜霧の恋人たち -Baisers volés(1968年)
- 暗くなるまでこの恋を -La Sirène du Mississipi(1969年)
- 野性の少年)-L'Enfant sauvage(1970年)
- 家庭 -Domicile conjugal(1970年)
- 恋のエチュード -Les Deux anglaises et le continent(1971年)
- 私のように美しい娘 -Une belle fille comme moi(1972年)
- アメリカの夜 -La Nuit américaine(1973年)
- アデルの恋の物語 - L'Histoire d'Adèle H.(1975年)
- トリュフォーの思春期 -L'Argent de poche(1976年)
- 恋愛日記 -L'Homme qui aimait les femmes(1977年)
- 緑色の部屋 -La Chambre verte(1978年)
- 逃げ去る恋 -L'Amour en fuite(1979年)
- 終電車 -Le Dernier métro(1980年)
- 隣の女 -La Femme d'à côté(1981年)
- 日曜日が待ち遠しい! -Vivement dimanche!(1983年)
[編集] 関連項目
- フランス映画
- ジョルジュ・ドリュリュー トリュフォーの主要な作品で音楽を担当した。
[編集] 註
- ^ Francois Truffaut: Correspondence, 1945-1984 ISBN 0815410247 英語版ペーパーバック