ジャン・ルノワール
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ジャン・ルノワール(Jean Renoir, 1894年9月15日 - 1979年2月12日)は、フランスの映画監督。
印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男。パリのモンマルトルに生まれる。
学校を中退後、第一次世界大戦に騎兵少尉として参戦。戦後、その療養中にチャップリン等の影響を受け、映画監督を志す。1920年にカトリーヌ・エスランと結婚。1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資した後、カトリーヌの主演で処女作『水の娘』で監督デビュー。
その後、父の絵を売却した資金で映画を本格的に撮り始め、フランスを代表する映画監督になる。ただし興行的には失敗が多かった。1937年の反戦映画『大いなる幻影』で巨匠として名が知られる。第二次世界大戦中にアメリカに亡命し、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも『南部の人』や『この土地は私のもの(邦題:自由への闘い)』等の作品を創り上げた。しかし大戦終了後も祖国フランスでは映画を撮る機会に恵まれずインド(『河』)やイタリア(『黄金の馬車』)などの他国で映画を作成する。祖国に戻ったのは大戦終了から10年近くも経過した後だった。
フランス復帰第一作の『フレンチ・カンカン』こそ商業的な成功を収めることができたが、その後の作品は当たらず映画を撮る機会が次第になくなっていった。そのことに失望して、晩年は亡命時代の知己を訪ねアメリカで暮らしその後終生フランスに戻ることはなかった。1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で他界。アメリカで失意の底にあったルノワールを精神面で支えていたのは、ルノワールを師と仰ぐヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーだった。
ジャン=リュック・ゴダールやトリュフォーなどのヌーヴェル・ヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモ、他にロバート・アルトマンやダニエル・シュミットなど、多くの映画作家に影響を与えた。また、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、ヴィスコンティやロバート・アルドリッチなど、後に各国を代表する映画監督が、ルノワールの下で助監督を務めている。
[編集] 主な監督作品
- 『水の娘』-La Fille de l'eau(1924年)
- 『女優ナナ』-Nana (1926年)
- 『マッチ売りの少女』-La Petite marchande d'allumettes (1928年)
- 『素晴らしき放浪者』-Boudu sauvé des eaux (1932年)
- 『ボヴァリィ夫人』-Madame Bovary (1933年)
- 『ジャン・ルノワールのトニ』 -Toni (1935年)
- 『どん底』-Les Bas-fonds(1936年)
- 『ピクニック』-Partie de campagne(1936年)
- 『大いなる幻影』 -La Grande illusion(1937年)
- 『ラ・マルセイエーズ』 -La Marseillaise (1938年)
- 『獣人』-La Bête humaine (1938)
- 『ゲームの規則』-La Règle du jeu(1939年)
- 『スワンプ・ウォーター』-Swamp Water (1941年)
- 『この土地は私のもの(邦題:自由への闘い)』-This Land Is Mine (1943年)
- 『南部の人』-The Southerner(1945年)
- 『浜辺の女』-The Woman on the Beach(1946年)
- 『河』 -The River(1951年)
- 『黄金の馬車』-Le Carrosse d'or(1953年)
- 『フレンチ・カンカン』-French Cancan(1954年)
- 『恋多き女』-Elena et les hommes (1956年)
- 『コルドリエ博士の遺言』- Le Testament du Docteur Cordelier (1959年)
- 『草の上の昼食』-Le Déjeuner sur l'herbe(1959年)
- 『捕えられた伍長』-Le Caporal épinglé(1961年)(遺作)