ブライアン・シコースキー
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ブライアン・パトリック・シコースキー(Brian Patrick Sikorski、1974年7月27日 - )はクリーブランド・インディアンスに在籍するメジャーリーガー。右投げ右打ち。 日本のプロ野球球団千葉ロッテマリーンズ(2001年-2003年)、読売ジャイアンツ(2004年-2005年)に在籍していた鉄腕リリーフ投手である。
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[編集] プロフィール
アメリカ合衆国、ミシガン州デトロイト生まれ。ウエスタンミシガン大学卒業後、1995年メジャーリーグのヒューストン・アストロズに入団した。1999年のシーズン中にウェーバー公示され、テキサス・レンジャースに移籍した。2000年にはメジャーリーグで10試合登板した。2001年シーズン途中にパシフィックリーグ・千葉ロッテマリーンズに移籍。ロッテ入団当初、新聞等では『シコルスキー』として扱われていたが、名前の関係上(卑猥な響きがするため)、入団時に『シコースキー』と選手登録され、以後はシコースキーとして扱われた。
1年目の成績は散々な成績だったが、150km/hを超える速球やナチュラルシュートを高く評価され、残留すると2002年、2003年は右の中継ぎ・セットアッパーとして2年連続で50試合・80イニング近く投げぬき、川井貴志、小林宏之などとともにロッテの手薄なリリーフを埋める。その鉄腕でチームに貢献し、防御率も3点台前半と健闘していたが、監督がボビー・バレンタインに交替すると戦力外通告されてしまい、セントラル・リーグ・読売ジャイアンツ(巨人)と契約、入団する。
巨人ではロッテ時代よりも変化球の種類を増やし、速球とあわせ投球にバリエーションをつけることでロッテ時代よりも信頼度を上げ、右のセットアッパーとして活躍。2年連続チーム最多登板を果たし、岡島秀樹などとともに堀内恒夫監督時代の手薄な巨人のブルペンを支えた。2005年9月3日には、広島戦(広島市民球場)で2点タイムリー二塁打を放ち、5年目での来日初安打も記録した。
しかし2005年シーズン終了後、原辰徳に監督が交代すると、またもよもやの戦力外通告を受ける。日本でのプレー続行を希望したシコースキーに対し、巨人はウエーバー申請をして獲得球団を待った。そして、同年11月21日、原と親交のある野村克也が新監督に就任し、戦力が手薄な東北楽天ゴールデンイーグルスがシコースキー獲得を発表する。
しかし、その直後から事態は一転し、"子供の教育問題"を理由に母国への帰国を希望するようになる。それに対し、楽天フロントは家庭の事情という理由もあり「日本の他球団と契約しない」ことを条件に彼の希望を受け入れ、自由契約とする。12月22日、メジャーリーグ・サンディエゴ・パドレスと契約、アメリカ野球界に復帰。その後2006年7月18日(日本時間)、戦力外通告を受け、現在はクリーブランド・インディアンスに移籍している。(2007年、オープン戦で松井秀喜と対戦する機会があり、右前安打を打たれた。)
- 02、03年は2年連続で50試合80イニング近くを投げ、05年はセットアッパーとして70試合に登板するなど昨今の日本球界で有数のタフさを誇っていた。現在(2006年)も変わらぬタフさを保ち奪三振率も日本時代よりもむしろ高くなっているものの、リリーフ投手にしては若干被本塁打数が高いことが弱点と言える。
- 登板時の投球練習の際に腕をグルグル回したり、攻守交代の際に自チームのベンチからマウンドまで全力で走り、白線を飛び越えるパフォーマンスなどは人気が高い。げん担ぎで、ロージンバッグを手に取った後その手を舐めていたこともあったが、胸焼けを起こしたため止めた。
- 他人の悪口を言うのは誰も聞いたことがないというその風評の一方で、ダン・ミセリが解雇された直後、妻子と共に浅草観光に行った件について「クビになって観光なんてとんでもない。外国人の恥だ」と痛烈に批判するなど、「人の良さ」でも知られていた。
[編集] 背番号
[編集] 日本での通算成績
238試合登板 21勝20敗8セーブ 防御率3.51 (2005年シーズン終了時)