堀内恒夫
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堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、山梨県甲府市出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球監督。右投右打。
2004~2005年シーズンの読売ジャイアンツの監督。ニックネームは「悪太郎」、「甲府の小天狗」、「大天狗」、「ホリツネ」、「ホリさん」、「ホリ」。
大きめの帽子が投球によって落ちるパフォーマンスで、力投している様を見せるとともに、打者に対してスピード感溢れるボールを演出していた。
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[編集] 来歴・人物
山梨県立甲府商業高等学校から1966年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1年目から一軍に定着し、新人記録である開幕13連勝を含め16勝をあげ、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。以後1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍した。1年目は背番号21番であったが、2年目よりエースナンバー18を背負う。
守備・打撃にも定評があり、1試合3ホーマーを1度(ちなみに3打席連続。後述)、通算21本塁打を記録している。V9時代を含め、12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。 しかし、1981年藤田元司が監督に就任すると、江川卓、西本聖、定岡正二の台頭により登板が急激に減り、1982年に投手コーチ兼任となる。1983年限りで引退。引退試合で、偶然にも打席が回り、その打席(生涯最終打席)でなんとホームランを放っている。
その後、日本テレビのプロ野球解説や、巨人の投手コーチ、ヘッドコーチを歴任。読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。2003年オフ、原辰徳の辞任により巨人の監督に就任するが、2005年には怪我人等続出が裏目に出て、Bクラス(5位)に低迷した。結局、巨人監督として最低の成績しか上げられず、また優勝を経験しないまま2005年オフに辞任した。
現在は日本テレビ野球解説者などを務める。長嶋一茂とは、犬猿の仲。
趣味はゴルフ。
[編集] 略歴
- 身長・体重:177cm 72kg
- 投打:右投右打
- 出身地:山梨県甲府市
- 血液型:O型
- 球歴・入団経緯:甲府商高 - 巨人(1966年 - 1983年) - 巨人コーチ(1984年 - 1985年) - 日本テレビ野球解説 - 巨人コーチ(1993年 - 1998年) - 日本テレビ野球解説 - 巨人監督(2003年 - 2005年) - 日本テレビ野球解説
- プロ入り年度・ドラフト順位:1965年(1位)
- 英語表記:HORIUCHI
- 守備位置:投手
[編集] 背番号
[編集] 選手通算成績
- 投手成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝 | 負 | S | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | |
1966 | 巨人 | 33 | 14 | 7 | 1 | 16 | 2 | .889 | 714 | 181 | 125 | 5 | 69 | 4 | 117 | 5 | 0 | 34 | 28 | 1.39 | ||
1967 | 巨人 | 23 | 13 | 2 | 0 | 12 | 2 | .857 | 609 | 149 | 126 | 7 | 59 | 1 | 82 | 6 | 0 | 41 | 36 | 2.17 | ||
1968 | 巨人 | 40 | 12 | 3 | 0 | 17 | 10 | .630 | 845 | 206 | 2/3 | 153 | 31 | 105 | 4 | 142 | 4 | 0 | 81 | 76 | 3.30 | |
1969 | 巨人 | 41 | 12 | 4 | 0 | 14 | 13 | .519 | 1004 | 236 | 2/3 | 211 | 21 | 107 | 6 | 160 | 6 | 1 | 94 | 82 | 3.11 | |
1970 | 巨人 | 42 | 18 | 1 | 0 | 18 | 10 | .643 | 1130 | 282 | 2/3 | 202 | 22 | 103 | 7 | 228 | 2 | 0 | 82 | 65 | 2.07 | |
1971 | 巨人 | 40 | 14 | 3 | 0 | 14 | 8 | .636 | 924 | 226 | 183 | 18 | 82 | 6 | 155 | 7 | 0 | 83 | 78 | 3.11 | ||
1972 | 巨人 | 48 | 26 | 4 | 1 | 26 | 9 | .743 | 1282 | 312 | 292 | 34 | 95 | 3 | 203 | 3 | 0 | 110 | 101 | 2.91 | ||
1973 | 巨人 | 39 | 15 | 2 | 1 | 12 | 17 | .414 | 953 | 221 | 238 | 28 | 70 | 6 | 113 | 1 | 1 | 117 | 111 | 4.52 | ||
1974 | 巨人 | 46 | 21 | 3 | 1 | 19 | 11 | 1 | .633 | 1106 | 276 | 2/3 | 217 | 31 | 80 | 7 | 127 | 2 | 0 | 101 | 82 | 2.66 |
1975 | 巨人 | 38 | 8 | 2 | 1 | 10 | 18 | 0 | .357 | 893 | 213 | 2/3 | 212 | 28 | 75 | 6 | 118 | 4 | 1 | 100 | 90 | 3.79 |
1976 | 巨人 | 34 | 11 | 2 | 0 | 14 | 6 | 0 | .700 | 763 | 177 | 1/3 | 173 | 23 | 71 | 4 | 82 | 2 | 0 | 84 | 78 | 3.97 |
1977 | 巨人 | 34 | 4 | 1 | 1 | 10 | 9 | 3 | .526 | 657 | 151 | 1/3 | 163 | 20 | 53 | 5 | 86 | 3 | 0 | 81 | 77 | 4.59 |
1978 | 巨人 | 35 | 7 | 3 | 1 | 12 | 9 | 0 | .571 | 829 | 201 | 190 | 22 | 59 | 3 | 113 | 1 | 0 | 86 | 79 | 3.54 | |
1979 | 巨人 | 24 | 1 | 0 | 0 | 4 | 7 | 0 | .364 | 400 | 86 | 1/3 | 111 | 16 | 35 | 2 | 59 | 1 | 0 | 68 | 64 | 6.70 |
1980 | 巨人 | 19 | 2 | 0 | 0 | 3 | 5 | 1 | .375 | 319 | 75 | 78 | 12 | 22 | 1 | 58 | 0 | 0 | 43 | 36 | 4.32 | |
1981 | 巨人 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | .250 | 92 | 22 | 27 | 3 | 1 | 0 | 11 | 1 | 0 | 16 | 11 | 4.50 | |
1982 | 巨人 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 29 | 7 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 5 | 3 | 3.86 | |
1983 | 巨人 | 11 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 79 | 19 | 2/3 | 16 | 2 | 9 | 1 | 9 | 0 | 0 | 9 | 9 | 4.12 |
通算成績 | 566 | 178 | 37 | 7 | 203 | 139 | 6 | .594 | 12628 | 3045 | 2725 | 323 | 1095 | 66 | 1865 | 48 | 3 | 1235 | 1106 | 3.27 | ||
- 打撃成績
- 1010打数174安打(打率.172) 21本塁打 82打点
[編集] 獲得タイトル
- 新人王(1966年)
- 最優秀防御率 1回(1966年)
- 最高勝率 3回(1966年、1967年、1972年)
- 最多勝 1回(1972年)
- 沢村賞 2回(1966年、1972年)
- MVP 1回(1972年)
- 日本シリーズ最優秀選手 2回(1972年、1973年)
- ベストナイン 2回(1972年、1974年)
- ゴールデングラブ賞 7回(1972年~1978年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | 平成16年 | 3位 | 138 | 71 | 64 | 3 | .526 | 259 | .275 | 4.50 | 56歳 | 巨人 |
2005年 | 平成17年 | 5位 | 146 | 62 | 80 | 4 | .437 | 186 | .260 | 4.80 | 57歳 |
※2004年シーズンは、スト決行のため2試合ゲームが中止された。
- 監督通算成績 284試合 133勝144敗7分 勝率.480
[編集] 監督時代
前任、原辰徳が突然解任されたこともあり、就任会見では「青天の霹靂。この時期にまったく予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。いかに巨人OBで後任の引き受け手のなかったことを匂わせる。
一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど、意欲を見せていた。1年目の2004年は前半優勝争いを演じるもの、後半失速し3位。2年目の2005年は、「今年はうちと中日の一騎打ちになると思う」と豪語したにもかかわらず、開幕から低迷し、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫した。
生え抜き選手の重視をしたあまり、外様選手との確執。しかも、両年とも投手陣・守備陣が完全崩壊。守りの野球どころか、2年連続して球団の防御率ワースト記録を更新する結果を招いた上、守備のベストナインにあたるゴールデングラブ賞も2年連続受賞者ゼロであった(球団史上初)。「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。 なお、監督時代の背番号「88」は、甲府商時代の恩師・菅沼八十八氏にちなんでつけたものである。 巨人の歴代監督で唯一勝率5割を切っている監督である。
[編集] 逸話
[編集] 現役時代(~1983年)
- 小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかしそのハンディキャップが逆に独特の大きなカーブ(ドロップ)を生み出すことになった。
- 甲府商では県大会を勝ち抜き山梨県代表となったが、甲子園では投げていない(巨人の星でもエピソードに使われている)。堀内が出場した大会では西宮と甲子園を併用したためである。
- プロ初登板(初先発)の投球練習時に、1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐした。
- 入団当時は、投げ終わった後に帽子が脱げそうになるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった。しかし、実は少し大きめの帽子をかぶり、ダイナミックさを演出していた。
- 入団してからしばらくの間、門限破りの常習犯として知られていて、当時「鬼軍曹」と恐れられていた武宮敏明寮長(当時)の目を逃れるため風呂場の窓から入ったとか、待ち構えていた王貞治に殴られた(有名な見かねた王の鉄拳伝説)など、逸話は数知れず。しかし自らが監督を務めるようになってからは、キャンプ中において選手の夜の外出を全面的に禁止した。
- ロサンゼルス・ドジャースのベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーからチェンジアップを学んだ。
- 現役時代は一歳年下の江夏豊とライバル関係にあった。ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成したが、今度は150勝を懸けた試合でも激突。この時は江夏に軍配が上がっている。江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹も立てていた。当時は現在と違い、ライバルチームの同世代選手を呼び捨てにする風潮も珍しい事ではなかった。
- 現役時代は打撃面でも活躍。特に1967年10月10日対広島第1試合(後楽園)では、ノーヒットノーランを達成し、さらに自ら3打席連続本塁打を放った。投手による3打席連発は史上唯一。日本シリーズや引退試合でも自ら本塁打を放っている。バッティングの良い投手を最後にも証明する。
- 新人時代の1966年、5月30日の大洋戦から6月22日の産経戦にかけて、44イニングス連続無失点を記録した。
- 1965年から1973年にかけて、巨人は9年連続日本一に輝いたが(V9時代)、その間、ON(王貞治と長嶋茂雄)以外でレギュラーシーズンの最優秀選手賞を獲得した唯一の選手である。
- 1972年、1973年の日本シリーズでMVPを受賞。巨人の投手で2年連続同タイトルを獲ったのは堀内だけである。しかも、ピッチングよりもバッティングの方が評価が高いという内容だった。
- 1979年4月9日の中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手になった。
- 1980年に引退した王貞治(現・ソフトバンク監督)は、引退試合後堀内を投手として招き正真正銘の最終打席を行っている。が、世界のホームラン王の王に対して堀内が投げたのは2球のドロップと渾身のストレート。これに王は空振り三振を喫した。この後、ポジションを入れ替え王が入団時のポジションである投手に、打者堀内で勝負したが、王の投球に対して堀内はレフトへホームラン。ここにも「悪太郎」ぶりが見て取れた。
- 日本シリーズ通算11勝は稲尾和久に並ぶ歴代最多タイ記録。
[編集] 評論家・巨人コーチ時代(1984~2003年)
- 1993年9月某日のヤクルト戦で、橋本清が金森栄治へ投じた一球が金森の背中を通り越す暴投になったことがあった。この投球に対して金森が激怒し乱闘が発生。金森は直後に選手に諭されてベンチに下がっているが、両球団のベンチ総動員の大乱闘となり、堀内もその輪に加わったものの、メガネが壊され、顔を引っ掻き回され、ユニフォームはビリビリに引き裂かれてしまった。
- ヘッドコーチ時代、春のキャンプでは現地で自転車をレンタルし、練習場を駆け回った。自転車の方が小回りが利き、練習を効率よく確認出来るとの判断からである。
- キャンプではマイクを持って指示を出していたことでも知られる。罰走を課す際には「ライトポールまで走れ!!」等、威勢のいい声が度々聴かれた。
- 2000年3月29日に東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツ対シカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た徳仁親王夫妻の横に座り、直々に野球解説を行った。
- 2000年9月24日、東京ドームで行われた、巨人-中日戦で、この試合勝てば優勝の巨人が、9回裏、2本のホームランで4点差をひっくり返した際、山本浩二と一緒に解説を行っていたのが、堀内である。試合後、「8回まで、(巨人は)何をやっていたのでしょうかね・・・」というセリフを残している。
- 2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田元司に続き堀内で2人目(戦前に投手経験のある川上哲治も含めるなら3人目。ちなみに川上の前任者である水原茂も内野手登録ながら1938年に春季・秋季合わせて12試合に登板、8勝2敗の成績を残している)。
[編集] 巨人監督時代(2004~2005年)
- 2004年の監督就任時、試合進行を円滑にしたいとの考えから、「本塁打を打った打者はベンチ内で迎える」、「打席に入る際のテーマソングの短縮」、「攻守交代は駆け足で」などの方針を打ち出した。
- 2004年シーズン中は、『スポーツうるぐす』で「ジャイアンツ城」というコーナーを持っていた。堀内が故郷山梨を代表する戦国武将武田信玄の格好で登場し、オープニングで「ジャイアンツ城、いざ出陣」と言っていた。
- 巨人はレギュラーシーズンで過去4度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会っている。1975年は後楽園球場で選手、1995年は明治神宮球場でコーチ、2005年は阪神甲子園球場で監督として見ることになってしまった。2006年は東京ドームで日本テレビ解説席で目撃している。
- 2005年春のキャンプでは、自室に「堀内バー(マスコミが命名)」を開いて酒をおき、選手との交流を図ろうとした。
- 2005年10月5日の本拠地最終戦の試合前に巨人監督辞任の会見を行った。「終わりました。長い2年?そうですね。あんまりいいことなかったから」と足早に球場を去ってしまった。
[編集] 巨人監督辞任後(2006年~)
- 監督辞任会見では「敗軍の将、兵を語らずの心境です」、「惨敗の全責任は私にある。選手・コーチ・スタッフは本当によくやってくれた」と語り、同席した清武球団代表からも「フロントの補強の失敗、あいつぐ選手の故障などがあったが、ほとんど愚痴を言われず黙々と戦っていただいた」と労いの言葉を貰った。
- 2005年11月25日の巨人納会には出席。退団会見から約1ヵ月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。
- 2006年以降、報知新聞の特別アドバイザー、日本テレビ野球解説者の任に就いている。
- 2006年3月5日、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本・韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人・渡邉恒雄球団会長、根來泰周コミッショナーとともに同席。解説を務めた。
[編集] For The Glory ~Over The Limit~
堀内が監督を務めていた時代の巨人のキャッチフレーズである。2004年シーズンはFor The Gloryのみであったが、2005年はOver The Limitが付与された。For The Gloryの日本語訳は「ただ栄光のために」。これは堀内の座右の銘の一つで、堀内の巨人に対する愛情とプライドが込められた標語と言えよう。また、著書にもなっている。
[編集] TVゲーム
- 過去にコナミから発売されたプロ野球ゲームソフト「プロ野球JAPAN2001」、「THE BASEBALL 2002 バトルボールパーク宣言」、「THE BASEBALL 2003 バトルボールパーク宣言 パーフェクトプレープロ野球」に解説者として登場。肉声を聴くことが出来る。
- 上記作品の続編と言える「プロ野球スピリッツ2」には、オプションキャラクターとして登場。選手登録して投げさせることも可能。
- 同じくコナミ(現在はコナミデジタルエンタテインメントより発売)の人気野球ゲームである実況パワフルプロ野球シリーズでは毎年のようにOB選手として登場している。凄まじいドロップが特徴。ちなみに、投手としては高い打撃能力を誇る。
[編集] 関連書籍
- ただ栄光のために―堀内恒夫物語、海老沢泰久著、新潮文庫、ISBN 4101266034
- オレは悪太郎―わが投手人生のMemoir、堀内恒夫著、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583024266
- 堀内恒夫―悪太郎まかり通る! 名球会comics、永島直樹・田中正仁著、ぎょうせい、ISBN 4324026548
- オレの野球、巨人の野球―優等生じゃないけれど、プロ根性なら負けやしない、堀内恒夫著、読売新聞社、ISBN 4643620102
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。