原辰徳
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原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市出身、神奈川県厚木市・相模原市育ちのプロ野球選手(現役期間1981年~1995年)、プロ野球監督(2002年~2003年、2006年~)。現役時代は読売ジャイアンツ所属の内野手。
現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。右投右打。愛称は「若大将」。あるいは「タツ」「平成の若大将」「ヤング・ミスター」「永遠の若大将」とも呼ばれる。いわゆる「ポストON世代」の筆頭。
高校時代から甲子園のアイドルとして大変な人気があった。
愛車はレクサスLS460
目次 |
[編集] 来歴・人物
- 父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校および東海大学の野球部監督であった原貢。
- 私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校、厚木市立緑が丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校を経て、1974年東海大相模高校に入学。
- 東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の全国高等学校野球選手権大会に3年連続で出場し、また1975年の春の選抜高等学校野球大会にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高に敗れたものの、準優勝という成績をおさめている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二(鹿児島実)、宇野勝、土屋正勝(銚子商)、杉村繁(高知)らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にするほどの「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原のほかにも、津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁し、高校野球ファンに鮮烈な印象を残している。高校通算本塁打は43本。
- 高校卒業後、東海大学に進学(遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光(故人)は後輩に当たる)。東海大学はまだ発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打とファンの期待に応えた。また、3年時に日本で開催された日米野球では、当時早稲田大学4年の岡田彰布と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋の再来」の期待をさらに大きなものとした。
[編集] 経歴
- 1980年 ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、相思相愛が実り巨人に入団(入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された)。背番号は高田繁の引退に伴い空いた「8」を受け継ぐ。
- 1981年 シーズン当初は二塁手として出場したが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障よりアマ時代からのポジションである三塁手に戻り、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。
- 1982年 最多勝利打点を獲得。
- 1983年 MVP、打点王、最多勝利打点を獲得。
- 1986年9月24日 対広島東洋カープ戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首を骨折。本人いわくこの怪我が致命傷になったという(実際この怪我を境に成績は下降したが、原本人は「あの時の津田との対戦には悔いはない」と当時から現在に至るまで繰り返し語っている)このころからアキレス腱痛などにも悩まされるが2年連続3割30本を記録。1989年には藤田監督が復帰し他の選手起用の関係や本人の怪我の影響を配慮し外野手(左翼手)に転向。
- 1992年 再び内野手(一塁手)に転向。藤田監督退任。
- 1993年 三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ(引退した年を除けば)プロ入り以来最低の成績に終っている。
- 1995年 現役引退。同年、球団一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を永久欠番にとの署名が多く集まり、巨人は「準永久欠番」に制定。以後、背番号8は生え抜きの選手のみに着用が許される番号となった(その後を受け継いだのは仁志敏久)。仁志が横浜ベイスターズにトレード移籍後の2006年にオリックスから同じくトレード移籍した谷佳知が背番号8を着用することが決定(原自ら打診したという)し、この規則は崩れた。
- 1996年 NHK総合テレビの「サンデースポーツ」のメインキャスターを務める(1999年3月まで)。
- 1999年 巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。
- 2000年 ヘッドコーチに昇格。
- 2001年9月29日 その年限りで勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。合言葉は「ジャイアンツ愛」。
- 2002年 引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から遠ざかっていた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い選手もそれによく応え、就任1年目にして日本一に導いた。
- 2003年 チームの4番かつセンターラインに君臨していた松井秀喜がFA宣言してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。相次ぐ主力野手の故障、さらには投手陣の崩壊など雪崩式にチームが崩壊、成績が低迷(3位)。阪神タイガースの独走を許し、当時の三山秀昭球団代表との確執もあり、「人事異動」の名においてわずか2年で監督を辞任(後任は堀内恒夫)。巨人軍特別顧問に転任した。小泉純一郎首相(当時)は「野球界にも権力闘争があるんだね」とコメントしている。
- 2005年 チームの成績不振により堀内監督が辞任。2006年から再び指揮を執ることが決定した。
- 2006年 開幕ダッシュには成功したものの、交流戦あたりから故障者の続出や、若手選手の経験不足もあり徐々に優勝戦線から脱落、かろうじて最下位転落は免れたが、4位に終わる。巨人では史上初となる4年連続のV逸、2年連続Bクラスを喫してしまった。
[編集] 略歴
- 身長・体重:181cm 86kg
- 投打:右投右打
- 出身地:福岡県大牟田市
- 血液型:A型
- 球歴・入団経緯:東海大相模高 - 東海大 - 巨人(1981年 - 1995年) - NHK野球解説 - 巨人コーチ・監督(1999年 - 2003年) - 巨人名誉顧問・日本テレビ野球解説 - 巨人監督(2006年 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1980年(1位)
- 英語表記:HARA
- 推定年俸:1億5000万(2007年)
- 現役時代の守備位置:三塁、一塁、外野、(二塁)
[編集] 背番号
- 8(1981年~1995年)
- 80(1999年~2001年)
- 83(2002年~2003年)
- 88(2006年~)
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁 刺 |
犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 併殺 打 |
打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | 巨人 | 8 | 125 | 470 | 64 | 126 | 23 | 6 | 22 | 227 | 67 | 6 | 6 | 0 | 7 | 30 | 78 | 9 | .268 |
1982年 | 130 | 494 | 81 | 136 | 19 | 1 | 33 | 256 | 92 | 11 | 6 | 0 | 4 | 44 | 82 | 6 | .275 | ||
1983年 | 130 | 500 | 94 | 151 | 32 | 4 | 32 | 287 | 103 | 9 | 4 | 0 | 8 | 63 | 56 | 11 | .302 | ||
1984年 | 130 | 468 | 72 | 130 | 19 | 1 | 27 | 232 | 81 | 7 | 3 | 1 | 4 | 70 | 58 | 8 | .278 | ||
1985年 | 124 | 441 | 79 | 125 | 23 | 2 | 34 | 254 | 94 | 7 | 3 | 2 | 8 | 70 | 42 | 6 | .283 | ||
1986年 | 113 | 406 | 70 | 115 | 21 | 3 | 36 | 250 | 80 | 7 | 2 | 1 | 6 | 54 | 57 | 8 | .283 | ||
1987年 | 123 | 433 | 80 | 133 | 17 | 3 | 34 | 258 | 95 | 7 | 2 | 0 | 7 | 49 | 61 | 11 | .307 | ||
1988年 | 126 | 467 | 79 | 140 | 24 | 1 | 31 | 259 | 81 | 5 | 6 | 0 | 0 | 62 | 63 | 14 | .300 | ||
1989年 | 114 | 395 | 60 | 103 | 22 | 0 | 25 | 200 | 74 | 3 | 3 | 0 | 2 | 62 | 68 | 6 | .261 | ||
1990年 | 103 | 366 | 58 | 111 | 17 | 1 | 20 | 190 | 68 | 6 | 4 | 0 | 4 | 55 | 64 | 4 | .303 | ||
1991年 | 127 | 455 | 66 | 122 | 13 | 1 | 29 | 224 | 86 | 5 | 3 | 0 | 12 | 57 | 82 | 7 | .268 | ||
1992年 | 117 | 437 | 61 | 119 | 17 | 1 | 28 | 222 | 77 | 4 | 3 | 0 | 3 | 53 | 71 | 13 | .272 | ||
1993年 | 98 | 336 | 28 | 77 | 14 | 0 | 11 | 124 | 44 | 3 | 2 | 0 | 3 | 48 | 62 | 9 | .229 | ||
1994年 | 67 | 200 | 26 | 58 | 4 | 1 | 14 | 106 | 36 | 0 | 2 | 2 | 1 | 24 | 21 | 5 | .290 | ||
1995年 | 70 | 144 | 13 | 29 | 8 | 0 | 6 | 55 | 15 | 2 | 1 | 1 | 1 | 14 | 29 | 5 | .201 | ||
通算 | 1697 | 6012 | 931 | 1675 | 273 | 25 | 382 | 3144 | 1093 | 82 | 50 | 7 | 70 | 755 | 894 | 122 | .279 |
- 太字はリーグ最高
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 背番号 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | 平成14年 | 巨人 | 83 | 1位 | 140 | 86 | 52 | 2 | .623 | ― | 186 | .272 | 3.04 | 44歳 |
2003年 | 平成15年 | 3位 | 140 | 71 | 66 | 3 | .518 | 15.5 | 205 | .262 | 4.43 | 45歳 | ||
2006年 | 平成18年 | 88 | 4位 | 146 | 65 | 79 | 2 | .451 | 23.5 | 134 | .251 | 3.65 | 48歳 | |
通算 | ― | 326 | 222 | 197 | 7 | .503 | ― | ― | ― | ― | ― |
- 太字は日本一
- 2002年から2004年までは140試合制
- 2005年から146試合制
- 監督通算成績 326試合 222勝197敗7分
[編集] エピソード
[編集] 現役時代
- 監督時代の応援歌は現役時代と同じ。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。
- ルーキー時代の1981年、明治のプリンのCM、1982年には読売新聞(試合の映像を使用、ナレーション:徳光和夫=当時日テレアナ)に出演していた。
- スバル360と同じ1958年生まれだったため、現役時代には富士重工業のイメージキャラクターに使われていたことがあり、スバル・レオーネのCMにも出演していた(岩崎宏美と共演)。
- 1982年のファン感謝デーでは当時大人気のタケちゃんマン(オレたちひょうきん族)に扮した。ちなみにブラックデビルは江川卓。これを見た中畑は「こんな寸劇の時でさえも、ちゃんと善玉と悪役を心得ているものだな」と評した。
- 1989年の日本シリーズの近鉄戦(第5戦)に於いて、近鉄の抑え投手の吉井理人(現・オリックス)は原の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、このシリーズ無安打で絶不調の原で勝負する作戦を試みるが、原は今シリーズ初安打となる起死回生、汚名返上の満塁ホームランを打つ。打った瞬間日本テレビアナウンサー・吉田填一郎は原が3塁を回ってヘッドコーチ・近藤昭仁と抱き合った際、興奮のあまり「牧野ヘッドコーチと抱き合いました!」と言い間違えてしまった(牧野は1984年に他界している)。またニッポン放送ゲストのダンカン(芸人、熱狂的阪神ファン、ちなみに原と同学年)は生放送中に号泣を披露した。
- 1992年の神宮の首位攻防ヤクルト14回戦、2点ビハインドの9回表、原の前打者岡崎郁は「原さん、俺死んでも塁に出ますから絶対返してください」と原に耳打ち。その言葉どおり岡崎が四球で出塁後に、伊東昭光から特大の同点ホームラン。打った瞬間「どうだ」と言わんばかりに見得を切り、バットを両手から放すと、ネクストバッターサークルにいた駒田徳広のすぐ手前にまでバットが飛んだ(「駒田に当たらないように気を使って投げた」とは本人の弁)。これが『バット投げホームラン』である。
- 現役引退セレモニーは、ホームゲームの日程がセ他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから当初行なわれる予定がなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月に組み込まれたことにより、実現した。そのセレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、当時既に珍しくなっていたデーゲームでの開催となった。現役最後の打席では、幾度となく好勝負を演じてきた大野豊が、2日前に完投したばかりにも関わらずワンポイントで登板した(結果はレフトフライ)。ちなみに、原は大野からはいつも抑え込まれていたというイメージが強いのだが、実際は大野との通算対戦打率は.293でこれは原の現役通算打率.279を大きく上回っており、決して相性の悪い投手ではなかった。
[編集] 解説者時代
- 1996年秋より、当時オリックスのイチローと共に、日産自動車の「イチロ・ニッサン」「変わらなきゃも変わらなきゃ」キャンペーンのCMに出演していた。
- TBSラジオでパーソナリティー番組「原辰徳のいきいきトーク」(土曜17時から17時15分 東京地区のみ)担当。
- サントリーモルツのCMに登場し、山本浩二や達川光男らとコミカルな演技を披露していた。
[編集] 指導者時代
- 監督としては、個々の選手の能力に頼るだけでなく選手の力を結集して戦うチームを目指し、チームのまとまりを重視する。第1次政権時の「ジャイアンツ愛」、第2次政権での「神輿」と言うフレーズ(「神輿に乗っているような選手はユニフォームを脱げ」「ジャイアンツという神輿を全員で担いで、優勝を勝ち取ろう」などとコメントしている)にそれが伺われる。
- 第一時政権時の背番号83は自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。
- 2002年6月19日の横浜戦で11回表無死一塁でベンチに控え野手清原和博・村田善則・鈴木尚広が残っているにもかかわらず、論理的な判断(清原は延長が12回に及んだ場合の代打要因として、また村田は捕手・阿部慎之助が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要因のため)から投手である桑田真澄代打という選択をするという長嶋茂雄ばりの直感力に優れた(勘ピュータとも評される)采配をした。しかもその桑田が初球をバスターエンドラン。見事に試合に勝利した。代打桑田の理由に関しては公式HPの2002.6.22の日記に掲載されているが、奇策に奇策を重ねるような戦いぶりであったと本人はあまり評価をしていない。
- 第二次政権時の背番号は先述の通り背番号は88である。これは前任の堀内と同じであるが、歴代の巨人監督で背番号をそのまま引継いだのは初めてである。
- 2006年シーズン開幕前日、メディアからの「開幕戦の4番打者は誰か」という質問に大多数は(キャプテンに任命された)小久保裕紀だろうと予想していたが「李承燁を起用(体の強さを買った)」。韓国メディアはこれを大々的に報道した。
- 2006年はシーズン開始以降高橋由伸など怪我人が続出し、危ういチームバランスながら前述の通り6月7日までは首位にいたが、小久保の交流戦での離脱でチームの体力が崩壊、分岐点となりついに下降線に転じる。その後も李承燁が孤軍奮闘するが、31年ぶりの2ケタ連敗(10連敗)を含め、前年まで球団史上で2回しかなかった9連敗をわずか1ヶ月足らずで2回も記録してしまうなど球団史上これまでにないほど負けが込みはじめる。これが響き8月4日には最下位に転落(最下位はこの日だけ)。最終的には4位に終わる。さらにシーズン終盤では李や二岡までもが膝の故障をおして出場するような事態となる。それでも、10月8日の甲子園での阪神戦では優勝に望みを残していた阪神を相手に勝利し、対阪神戦の負け越しも3年で止め意地を見せた
- 2006年は巨人といえどもほぼ完全アウェーの甲子園の雰囲気に飲まれないだけの強い精神力を持ってほしいとの想いから、「甲子園での阪神戦でどういう試合をするか」を重要視した。実際、2006年の甲子園では5勝6敗、阪神戦では11勝11敗と、この年の両チームの後半の戦力差を考えれば悪い成績では無かった。しかし、中日に6勝16敗と、阪神の連覇阻止に逆の立場から貢献してしまう。
- 今オフ、1990年に選手として4連敗を喫し自身切歯扼腕する思いを味わった黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹を切り札として招聘、守備・走塁面を全面的に依頼し、「もういい選手はいらない。強い選手が欲しい」と発言。2007年からクライマックスシリーズが導入されるが、このチームの任務は日本一であり、膝を痛めながらも4番としてほぼフル出場、3割40本100打点を放った李、全試合出場を果たした二岡、新戦力としてはFA移籍で獲得した小笠原道大や外国人選手などを安定して使えるか、若い選手、当落線クラスの選手の力量をどこまで上げられるかが注目される。
[編集] その他
- 電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。
- 爽やかな印象とは裏腹に、鉄拳制裁も辞さない厳しい一面も併せ持つ。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と喝を入れ、2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では東海大学の後輩でもある久保裕也が打ち込まれた際、鉄拳を交えた説教をした後記者団に「(鉄拳制裁について)ちょっとなでなでしただけ。彼はジャイアンツの期待の星なんだ。」とコメントし、期待がかかっているからこそ説教をしたことが伺える。
- 阪神の星野仙一SDや楽天の野村克也監督などと親交が深く、コーチ陣の起用も非巨人OBが意外に多く、実は巨人以外でも球界で幅広い人脈を誇る。ちなみに野村には藤田監督や原貢氏並に深く影響を受けており、野村を祝うイベントにも出席し、コメントを出している。それだけが理由ではないだろうが、野村は原の監督としての手腕をある程度評価している)。
- 2003年監督辞任の際、そのスピーチを敵地阪神甲子園球場(阪神vs巨人最終戦の試合終了後)でも行った。これは星野の発案と言われている。同球場の観客には阪神ファンが圧倒的に多く、ましてライバル球団の関係者がスピーチを行うことなど前代未聞であったが、辞任に至る経緯などから、原に同情的な阪神ファンも少なくなかった。辞任の際、阪神を率いていた星野から花束を渡され、「また戻って来い」と激励されると、感極まり、原は涙を流しながら抱きついた。なお、原は現役の頃から阪神のユニフォームを着たファンからもサインを求められることが頻繁にあり、私設応援団などから野次としての応援歌の替え歌を流されることはあったものの、阪神ファンからも好意的な印象を得ている数少ない巨人OBの一人である。2002年の阪神甲子園球場での胴上げは過去の歴代監督の苦い経験から暴動が起きるのではないかと心配されたが、むしろ逆で球場全体から大きな拍手を送られた。そうなったのも阪神がその試合に勝ったからという説もあるが、それ以上に原の人徳が阪神ファンの心を動かしたという見方のほうが一般的である。
- 第一次監督就任前に川上哲治の近所に居を移したが、一方では川上の後ろ盾がある星野仙一と監督の座を争った。
- 冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。プロレスも日本テレビで中継をしている系列の全日本プロレス→プロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説で出演するなどもしている。これら団体の試合を会場で見ることもしばしばあり、以前全日本プロレスでは永源遙の唾攻撃が原、岡崎郁と一緒に3人で観戦し、隣に座っていた廣田浩章(1990年ごろの巨人の中継ぎ投手)のジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。また、ノアの三沢光晴社長とも親交があり、試合前の東京ドームに三沢が現れる事も多い。
- ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。
- 好きな食べ物は天ぷららしい。
- 球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。(1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前)
[編集] 歌
- どこまでも愛(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚(ちなみにB面のタイトル「サム」は愛犬の名。)
- ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- サムシング(アルバム、1995年にCDで再発)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。
00 川中基嗣 | 0 木村拓也 | 2 小笠原道大 | 5 ルイス・ゴンザレス | 6 小坂誠 | 7 二岡智宏 | 8 谷佳知 | 9 清水隆行 | 10 阿部慎之助 | 11 久保裕也 | 12 鈴木尚広 | 13 林昌範 | 15 辻内崇伸 | 17 姜建銘 | 19 上原浩治 | 20 豊田清 | 21 高橋尚成 | 22 福田聡志 | 23 脇谷亮太 | 24 高橋由伸 | 25 李承燁 | 26 内海哲也 | 27 門倉健 | 28 金刃憲人 | 29 前田幸長 | 30 西村健太朗 | 31 小関竜也 | 32 円谷英俊 | 33 野間口貴彦 | 35 亀井義行 | 36 岩舘学 | 37 斉藤宜之 | 38 上野貴久 | 39 吉武真太郎 | 40 村田善則 | 41 木佐貫洋 | 42 ジェレミー・パウエル | 43 真田裕貴 | 44 大道典嘉 | 45 小田嶋正邦 | 46 野口茂樹 | 47 松本哲也 | 48 矢野謙次 | 49 デーモン・ホリンズ | 50 吉川元浩 | 51 古城茂幸 | 52 十川孝富 | 53 實松一成 | 54 三浦貴 | 56 加藤健 | 57 三木均 | 58 星孝典 | 59 深沢和帆 | 60 深田拓也 | 61 坂本勇人 | 62 越智大祐 | 63 会田有志 | 64 酒井順也 | 65 梅田浩 | 66 田中大二郎 | 67 加登脇卓真 | 68 栂野雅史 | 69 寺内崇幸 | 90 深町亮介 | 92 木村正太 | 93 東野峻 | 96 伊集院峰弘 | 100(育成選手) 佐藤弘祐 | 101(育成選手) 山本光将 | 102(育成選手) 山口鉄也 | 103(育成選手) 芦沢明 | 104(育成選手) 下山学 | 106(育成選手) 林羿豪 | 107(育成選手) 隠善智也 | 108(育成選手) 作田啓一 | 109(育成選手) 鈴木誠 | 110(育成選手) 大抜亮祐 | 129(育成選手) ウィルフィン・オビスポ
88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 98 玉木重雄 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 94 木樽正明 | 95 宮本英治 | 97 伊藤博 | 99 内藤重人 | 111 藤田浩雅 | 130 金杞泰 |
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