カート・ヘニング
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カート・ヘニング(Curtis Michael Hennig、1958年3月28日~2003年2月9日)はアメリカ合衆国ミネソタ州ロビンズデール出身の元プロレスラー。なお、姓のスペリングにおいてHenningは誤り。
WWEではミスター・パーフェクト(Mr. Perfect)のリングネームでも活躍した。父はAWAなどで活躍した名レスラー、ラリー・ヘニング。
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[編集] 経歴
兄ランディがレスラー志望ではなかったため、代わりに家業を継ぎ父ラリーとバーン・ガニアのコーチを受け1980年1月にデビュー。ルーキー時代はNWAパシフィック・ノースウエスト地区(オレゴン州周辺)に所属。
1984年、AWAと契約。当時はWWF(現WWE)によるハルク・ホーガンを始めとするスター選手の大量引き抜き直後だったこともあり、早くから頭角を現して1986年1月18日、スコット・ホールとのタッグでAWA世界タッグ王座を獲得。AWAの次代の主役候補と期待され、1987年5月2日にはニック・ボックウィンクルを破ってAWA世界ヘビー級王座を初戴冠。しかし翌年の5月9日、ジェリー・ローラーによってタイトルを奪われると自身もAWAを退団し、WWFに移籍した。
WWFでは『完璧な男』というギミックが与えられ、ミスター・パーフェクトの名で登場。ボビー・ヒーナンと組むなどヒールサイドのトップグループに迎えられ、1990年8月には王座決定トーナメントを制してIC王座を獲得。タイトルは一度テキサス・トルネードに奪われるが奪回し、サマースラム'91ではブレット・ハートを相手に防衛戦を行った。試合には敗れたものの、この試合はWWE史・プロレス史に残る名勝負として名高い。この頃から首などの怪我に悩まされ始め、移籍してきたリック・フレアーのマネージャーやテレビ放送のコメンテーターなどを主に務めるようになる。その後も生涯ケガによる長期欠場と復帰を繰り返した。
ケガが多くなってからはコーチとしても活動。ブロック・レスナー、ドン・フライ、ブライアン・ジョンストンらが教えを受けている。
1997年、ライバル団体WCWに移籍。US王座やWCW世界タッグ王座(&バリー・ウィンダム)の獲得、nWoやフォー・ホースメンに加入するなど活躍した後、2000年夏に退団。
2002年、ロイヤルランブル2002でWWEに復帰。同大会のロイヤルランブル・マッチでは最後の三人まで残るなど大活躍したが、わずか3ヵ月後に退団。その後は当時旗揚げされたばかりのTNAに参戦した。
2003年2月9日、試合出場のため訪れていたフロリダ州タンパのホテルで急死。怪我による鎮痛剤の過剰な服用が死因とされる。
[編集] 試合スタイル
投げ技・大技はほとんど使用せず、基本的な打撃技と関節技だけで試合を構成してしまうプロレス史上屈指の試合巧者。また受身の技術も高く評価され、ミスター・パーフェクトの名は伊達ではなかった。そのためプロレスの手本的存在として高くリスペクトを受け、ヘニングの試合を観戦してプロレスを勉強する若手選手も多かった。試合スタイルと入場時に常に右手に持っていた白タオルは、共にバディ・ロジャースからニック・ボックウィンクル、そしてヘニングへと受け継がれたものである。
死後もなお多くの選手から賞賛を受けており、WWEの若手選手からも憧れの存在として名を挙げられる事も珍しくない。ジェフ・ジャレットもインタビューで「史上最高の選手」を問われ彼を挙げている。
[編集] 得意技
- パーフェクト・プレックス
- パーフェクトDDT(フィッシャーマン式DDT)
- バックドロップホールド
[編集] その他
WWE初登場時にはテレビでプロモーションビデオが流された(選手用に作られたのはこれが初めて)。内容はヘニングが野球、バスケットボール、ゴルフ、ダーツ、ボウリングなどで次々とスーパープレイを披露し、最後に「I'm Perfect.」と呟くものだったが、これは合成映像などではなく、全て撮影時に実際にヘニングが(しかもほぼ一回で)決めてみせたものだ、というエピソードが残っている。
カテゴリ: アメリカ合衆国のプロレスラー | WWE | 1958年生