ブロニスワフ・ピウスツキ
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ブロニスワフ・ピョートル・ピウスツキ(Bronisław Piotr Piłsudski、1866年11月2日(ユリウス暦10月21日) - 1918年5月17日頃)は、ポーランドの社会主義活動家、文化人類学者。ポーランドの初代首相ユゼフ・ピウスツキは弟。
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[編集] 略歴
現在のリトアニアの、ヴィリニュスから北東へ60km離れたシフィェチャヌィ (Święciany) 郡のズウフ (Zułów)に生まれる。ヴィリニュスで高等学校を中退。
1886年、サンクトペテルブルクでサンクトペテルブルク大学の法学部に入学。 1887年、アレクサンドル3世暗殺計画(この時処刑された首謀者の中にはウラジミール・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフがいた)に連座して懲役15年の判決を受け、樺太へ流刑となる。
サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後原住民の子供たちへの教育を始める。その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリャーク)との交流が増えるようになる。
1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・ヤコヴレヴィッチ・シュテンベルグと知り合う。その後、ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。
1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。この年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。
1899年にはウラジオストクへ渡り、翌1900年のパリ万国博覧会用の資料を提供、好評を得る。1902年にアイヌとウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。同年農民身分となる。年末には、樺太南部にある集落・アイで村長バフンケの従妹チュフサンマと結婚し、一男一女をもうける。
その後もロシア語などをアイヌに教える一方でアイヌ、ウィルタ、ツングース族などの資料収集を行っていたが、日露戦争勃発後の1905年、バフンケに反対されたため家族を止む無く残して日本へ渡る(長男の子孫は今ではピウスツキ家唯一の男系子孫である)。
1905年4月12日、「樺太アイヌ統治規定草案」(沿海地方国家歴史図書館蔵)を作成。
日本では亡命ロシア人による反皇帝組織を支援したり、二葉亭四迷、横山源之助、上田将、大隈重信、鳥居龍造、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交流。同年にアメリカ経由でポーランドへ戻る。
帰国後は、ヨーロッパ各地を転々としながら弟ユゼフらと文通を行い、亡命ポーランド人らと交流してポーランドの独立運動に携わる。その一方でアイヌ研究を続けた。
1918年、第一次世界大戦終結を前にしてパリでセーヌ川に身を投げて自殺。遺書は無かったために動機は不明である。
[編集] 少数民族の研究
略歴に述べたように、ピウスツキは流刑された10数年の間に樺太アイヌ、ギリャーク、オロッコなどの写真・音声資料を多量に残した。特に蝋管は200から300本残したといわれているが、その多くは現在では行方不明である(ロシアなどで見つかる可能性はある)。現存する蝋管は、現在では最古の樺太アイヌの音声資料として重要である。
日本では北海道大学を中心としてピウスツキの資料研究が進められており、1983年にはポーランドのザコパネに残されていた64本の蝋管が北海道大学に貸与され、再生及び分析が行われた(この時内容の調査に協力したのが樺太アイヌの最後の生き残り浅井タケである。樺太アイヌ語の研究者村崎恭子も参照)。
[編集] 主な著作
- 「樺太アイヌ統治規定草案」 1905年
- 「樺太アイヌの状態」上田将訳京華日報社『世界』No26,No27 1906年
- このときの署名はブロニラウ・ピルスドスキー
- Materials for the Study of Ainu Language and Folklore. Cracow: The Imperial Academy of Sciences, “Spółka Wydawnicza Polska” 1912.