ヘルムート・グラフ・フォン・モルトケ
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ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラフ・フォン・モルトケ (Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日) は、プロイセン王国の軍人。陸軍参謀総長として天才的な手腕を見せ、対デンマーク戦争(1864年)、対オーストリア戦争(1866年)、対フランス戦争(1870-1871年)に勝利してドイツ統一に多大な貢献をした。甥で後に同じく陸軍参謀総長として第一次世界大戦の帝政ドイツ陸軍を指揮したヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)と区別して、大モルトケとも呼ばれる。
モルトケは1800年、ドイツのデンマークとの国境紛争の地メクレンブルクのパルヒムに生まれる。父はドイツ貴族であるがデンマークの陸軍士官になり、モルトケはプロイセン幼年学校からデンマーク士官学校に転じ、1818年、18歳の時にデンマーク軍少尉に任官するが、後に転じてプロイセン士官学校に入り、1826年、26歳のときにプロイセン軍少尉に任官し、参謀畑を進んだ。1835年から1839年にかけて軍事顧問としてオスマン帝国に派遣された後、1858年、プロイセン参謀本部の参謀総長に推され、翌年に中将となる。
その戦略的思考はクラウゼヴィッツの影響を強く受け、1866年の普墺戦争では入念な研究準備の下に、僅か七週間の戦争でオーストリアを屈服させた。
その後もプロイセン陸軍の充実に努める。1868年には甥のモルトケ(小モルトケ)が副官になっている。1870年に普仏戦争が勃発。フランス皇帝をも捕虜とするセダンの大勝利により伯爵の称号を得、ヘルムート・カール・グラフ・フォン・モルトケとなる。7月19日の対仏宣戦布告から四ヵ月後の1871年1月28日にパリに入城し、戦争を終結させた。この戦勝によりドイツ各地の諸邦はプロイセンの主導するドイツ帝国に統一された。
モルトケの戦史上の功績の一つは、当時のニュー・テクノロジーである鉄道と電信を積極的に利用したことである。電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力を包囲殲滅する戦術を確立したことにある。(第二次世界大戦におけるヒトラー・ドイツの無線を利用した戦車間の命令伝達、戦車部隊と航空機との直接交信による陸空の混合攻撃電撃戦も、モルトケの影響の一つである。)