ポーランド回廊
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ポーランド回廊(ポーランドかいろう)或いはダンツィヒ回廊は、第一次世界大戦後ポーランド国家復興の際、ドイツ帝国から割譲された領土。
第一次世界大戦以前、ポーランド国土は北東側のバルト三国、北西側の東プロイセンと自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)によって、バルト海への出口が塞がれていた。ポーランド回廊は、内陸国だったポーランドのバルト海への出口として設定された。これは、ポーランド回廊に当たる地域、すなわちプロイセン地方と神聖ローマ帝国領であったポンメルン・ブランデンブルク間は、元々ポーランド王国領であったからだ。しかし文化的にドイツ人の影響の濃い地域でもあり、1772年~1795年に起こったポーランド分割の際はプロイセン王国領となっている。
一帯の住民はドイツ人主体であり、領土を東西に分割されたドイツ人の怒りは大きく、ポーランドはナチス・ドイツの絶好の攻撃対象となった。ポンメルンから、バルト地方にかけて住むドイツ系住民は、バルト・ドイツ人(あるいはチュートン人)と呼ばれ、またプロイセンに住むドイツ人はプロイセン人と呼ばれた。東方植民地運動以来、数百年にも及ぶドイツ系の影響下にあったが、第二次世界大戦でナチスが敗れると、ソ連軍によってこの地域のドイツ人は一掃された。