民族浄化
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民族浄化(みんぞくじょうか)
- 日本での優生学政策の標語。1905年頃よりらい予防法制定に向けて政府関係者から叫ばれた(ハンセン病参照)。
- セルビア語の「etničko čišćenje」、英語のエスニック・クレンジング (ethnic cleansing) の和訳に当たる近年の用法。以下で記述。
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民族浄化(英:ethnic cleansing)は、複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集団が別の民族集団を強制移住、大量虐殺、迫害による難民化などの手段によってその地域から排除しようとする政策。特に強姦や強制妊娠などを伴う民族抑圧を指して言う場合もあるが、実際にこの言葉が使われる際その定義は曖昧である。直接的暴力を伴わない同化政策も広義には民族浄化に含まれるという見方もある。
目次 |
[編集] 語源
「民族浄化」は、1990年代に内戦中の旧ユーゴスラビアのメディアに頻繁に使用されたセルビア語の「etničko čišćenje」を翻訳したもので、1992年頃から世界の主要メディアでも広く使用されるようになった。語源に関しては諸説あり、1990年代前半にボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム(ボシュニャク人)側の外務大臣の依頼により「侵略者セルビア」非難の語としてアメリカの広告会社がつくった造語であるという説もある。この言葉はメディアを通じて広く用いられて「民族浄化主義者」セルビア人に対する敵意を醸成し、のちのコソボ空爆への道を開いたとされる。
[編集] 歴史上の民族浄化とされる事例
歴史的な事件のなかから、現代の視点において「民族浄化」政策と考えられるものを列記する。なお、以下のほぼ全ての事例について、当該事実自体が無かったとする意見(否認主義参照)や、現代の視点での「民族浄化」の定義外とする意見がある。
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- ※「民族浄化」という用語は1990年代に現れた造語と考えられ、それ以前については事件発生当時に「民族浄化」と表現された事例が下記に含まれるかどうかについて、Wikipediaでは出典が提示・検証されていない。事件当時から「民族浄化」と呼ばれていたものをコレクションしたものではないことに注意されたい。
- 旧約聖書ヨシュア記に記されたユダヤ人による占領地カナンの先住民への民族浄化(聖絶)
- 1915年から1916年にオスマン帝国(トルコ)の統一と進歩委員会(青年トルコ党)によって行われたアルメニア人の強制移住および1919年から1922年まで続いたアルメニア独立運動と青年トルコ系のトルコ革命軍の戦闘にともなう虐殺(アルメニア人虐殺)と、同時期のポントス・ギリシア人追放。1923年のローザンヌ条約でトルコとギリシャの間で住民交換協定が定められて両国に少数派として存在したギリシャ人とトルコ人が相手国に強制的に移住させられ、この一連の戦争の末にイスタンブルとエーゲ海の島々を除いたトルコ領のアナトリアからギリシャ人とアルメニア人はほとんど消滅した。
- 1932年から1936年のベラルーシとウクライナからカザフスタンへのポーランド人の追放 (Belorussia and Ukraine) 。
- ドイツとの併合後のオーストリアからのユダヤ人の追放とポーランドのナチスドイツによる被占領地域 (Polish areas annexed by Nazi Germany) からのユダヤ人とポーランド人の強制移住。(ホロコーストの前兆)
- 1939年から1941年のバルト三国のソ連占領地域からのポーランド人の強制移住。
- 1942年から1945年にかけて日本軍が占領下に置いた英領マラヤにおける華人の虐殺(華僑粛清)。
- 1943年から1944年のヨシフ・スターリンによるソ連のチェチェン人、ヴォルガ・ドイツ人 (Volga Germans) 、その他の少数派住民の大量強制移住。
- 1944年のドイツによるザモシチ県 (Zamosc Voivodship) からのポーランド人の追放。
- ユダヤ人の強制収容所への追放がなされたホロコースト(ショアー)も民族浄化の最も極端な例と言われる。
- 1945年、ドイツ敗戦以降の東欧諸国からの民族ドイツ人の追放。
- 大日本帝国がアイヌやウィルタ、琉球人、朝鮮人、台湾人などの少数民族を抑圧、日本人と同化しようとした皇民化政策。
- 1945年、連合軍(主にソ連軍および中国(国民党および共産党)軍)による、日本敗戦以降の朝鮮、台湾、満州国等からの日本人の追放、殺害、および強制収容。
- 1947年、英領インドの分割以降の、ヒンドゥ教徒とシーク教徒のパキスタンからインドへの大量追放と、イスラム教徒のインドからパキスタンへの大量追放。インドとパキスタンの係争地カシミールでは、インドとパキスタン両国の実効支配地域から、ヒンドゥー教徒が、イスラム主義民兵によって追放された。
- 1948年のイスラエルからのアラブ人の追放。
- 1948年から1950年にかけてのイエメン、イラク、リビア、シリア、エジプト、アルジェリア、ヨルダンからの大きなユダヤ系コミュニティの追放。
- 1949年のインドネシア独立以降、同国政府による、各少数民族の、原住地域(東ティモールとパプアを含む)からの大量強制移住。
- 1950年の中華人民共和国のチベット侵攻以降における同地でのチベット族の虐殺、追放。(参考ダライ・ラマ法王日本代表部事務局)
- 中華人民共和国における少数民族の労働改造所への強制収容。
- 中華人民共和国における少数民族への、普通話を教授言語とした学校教育による、漢族への文化的、言語的同化政策。
- 中華人民共和国における少数民族への強制的な断種、避妊手術
- 中華人民共和国における少数民族の漢族との通婚の強制
- 1960年代から1990年代のインドネシア、スハルト政権下で行われた華人に対する虐殺、同化政策。
- 1962年のアルジェリア独立に前後して行われたコロン(ヨーロッパ系住民)の追放
- 1974年から1975年にかけて、北キプロスからのギリシャ系住民の追放と南キプロスからのトルコ系住民の追放。
- 1975年から1978年のポル・ポト政権下における、ベトナム系住民の追放、殺害。
- 1980年代にブルガリアで行われた、トルコ系少数民族への同化政策(民族復興プロセス)
- 1990年から2000年のフジモリ政権下のペルーで行われた先住民女性に対する強制避妊手術
- 1991年のソビエト連邦からのバルト三国の独立以降、ロシア系住民に対して行われている、同化、追放政策
- 1994年、ルワンダにおけるフツ族によるツチ族の虐殺
- 2003年以降のスーダン西部のダルフール地方におけるアラブ系民兵による非アラブ系住民の追放・虐殺(ダルフール紛争)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 「民族浄化」という言葉について(東京大学法学部教授・塩川伸明ホームページ)