マヤノトップガン
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1996年3月9日 阪神競馬場 |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1992年3月24日 |
死没 | (現役種牡馬) |
父 | ブライアンズタイム |
母 | アルプミープリーズ |
生産 | 川上悦夫 |
生国 | 日本(北海道新冠町) |
馬主 | 田所祐 |
調教師 | 坂口正大(栗東) |
競走成績 | 21戦8勝 |
獲得賞金 | 8億1039万円 |
マヤノトップガンは、日本の競走馬、種牡馬である。菊花賞、有馬記念、宝塚記念、天皇賞(春)の4つのGI競走を、それぞれ好位抜出、逃げ切り、4角先頭、直線強襲というそれぞれ異なる戦法で勝ち、脚質の自在性をアピールした。 また、菊花賞、有馬記念を勝った1995年には年度代表馬にも選ばれた。
年齢は旧表記(数え)
目次 |
[編集] 戦績
1995年1月8日に新馬のダート戦でデビューを迎え、1番人気の支持を得たが、ワンダーパヒュームに敗れ5着に終わり、4戦目の3月25日の未勝利戦でようやく1勝目を挙げる。
その後も脚部にソエが見られたため、陣営判断によりダート路線で使い続けたがなかなか勝てず、7戦目となる5月28日(同年の日本ダービー当日)の500万下のレースで2勝目を挙げた。その後、初の芝レースとなる900万下(現在の1000万下)のロイヤル香港JCTを3着とまとめ、芝への不安を解消すると次走のやまゆりステークスで3勝目を挙げ、芝転向を確定づけるとともに本格化の兆しが見えた。秋は4歳クラシックの最終戦菊花賞を目指し、まずトライアル初戦の神戸新聞杯で2着となり、出走権を獲得する。さらにもう一つのトライアル京都新聞杯でも2着となり、同世代のトップクラスと互して能力に遜色ないことを証明した。
この年の菊花賞は、ダービー馬のタヤスツヨシが秋になって不調、皐月賞馬のジェニュインは距離適性から天皇賞(秋)に回っており、オークスを制し欧州GIのヴェルメイユ賞に挑戦して帰国したばかりながら果敢に牡馬に挑戦した牝馬のダンスパートナーが一番人気となる混戦ぶりであった。そんな中マヤノトップガンはトライアルで勝ちきれなかったものの安定した好走が評価され3番人気に押された。レースではスタート直後に4番手につけ、その位置をキープし続けると最終4コーナーで一気に先頭に立つと、直線では後続を寄せ付けない力強い走りを見せ、当時のレースレコードで勝利した。
ここまで数多くのレースを使ってきたことから、年末の大一番有馬記念へはなかなか出走の意思を明確にしなかったが、状態が悪くないことから陣営は出走を決断。まだGIを一勝しただけで信頼が厚くないこと、状態が絶好調ではなかったことから、ヒシアマゾンや三冠馬ナリタブライアンよりも離れた6番人気に留まった。しかしレースではスタートで先頭に立つとスローペースに落とし、そのまま見事に逃げ切って優勝した。
主戦で鞍上の田原成貴は菊花賞と有馬記念でゴールをした時に「十字を切って投げキッス」というパフォーマンスを演じたが、これは同年に凱旋門賞をラムタラで制したランフランコ・デットーリの真似で、後輩の騎手たちに「勝ったらやってくださいよ」と言われたためと、自らのエッセイで記している。GIを2勝したことが決め手となり、1995年度の年度代表馬、最優秀4歳牡馬に選ばれる。
翌1996年は阪神大賞典から始動。レースはマヤノトップガンとナリタブライアンのマッチレースとなる。残り600メートル標識付近から他馬を引き離し、お互い譲らず最後はアタマ差2着という決着になった。2着マヤノトップガンと3着の差は9馬身だった。次の天皇賞(春)では、単勝オッズがナリタブライアンが1.7倍、マヤノトップガンが2.8倍で3番人気のサクラローレルが14.5倍と2頭が抜けた人気になったが、サクラローレルが優勝し、マヤノトップガンは5着に敗れた。
陣営が次走に選んだのは宝塚記念であった。この年の宝塚記念は前年発生した阪神大震災の復興支援競争として行われた。有力馬の回避が相次いだため、マヤノトップガンは圧倒的な1番人気となるが、これに応えて危なげなく勝利。この時の実況「トップガン、堂々たる勝利文句無し」は有名。また、馬主も阪神大震災で大きな被害を被っており、地元の摩耶山から冠名をとったマヤノトップガンの勝利は被災者に勇気を与えた。 秋はオールカマーから始動。サクラローレルと人気を二分(両馬とも単勝1倍台)するも4着と完敗。天皇賞(秋)では接戦の中2着と踏ん張ったが、有馬記念ではサクラローレルの快勝の前に7着と惨敗した。
1997年は昨年と同じく阪神大賞典から始動。このとき、それまでの先行とは一転した、初めての最後方からの競馬を試み、見る者に驚きを与えたが、最後は末脚を生かして優勝した。そして迎えた天皇賞(春)では、先行していたサクラローレルとマーベラスサンデーの2頭を大外から強烈な末脚をもって差し切り、従来の1993年にライスシャワーが記録した3分17秒1を2.7秒更新する当時の世界レコード3分14秒4で勝ちGI4勝目を挙げた。
その後は京都大賞典での復帰からジャパンカップを大目標として秋のGI戦線に向け調整していたが、左前脚に浅屈腱炎を発症したため同年9月25日現役引退を発表。種牡馬入りすることとなった。
[編集] 引退後
まだ現役競争生活を送っていた1997年3月3日、7億2000万円の種牡馬シンジケートが組まれた発表があった。現在は北海道の優駿スタリオンステーションに繋養されている。ブライアンズタイム産駒の種牡馬としては、初年度からGI馬を出したタニノギムレットと並んで成功と言って差し支えない成績を上げており、これまで5頭でJRAの重賞を10回勝っている。芝、ダートともに問題なく、距離も短距離馬から長距離馬まで幅広い産駒を出している。また、活躍馬の中には父同様初勝利まで時間がかかっても、その後持続的に好成績を上げるパターンも目立つ。裏を返すと総じて晩成気味であり2歳時から目立つ成績を上げる馬は少ない。また牝馬の活躍馬もいなかったが、これらは2006年に入りハロースピードがデビューから2連勝を飾るなど新たな傾向が見えつつある。
ところで、顕彰馬(競馬の殿堂入り)の目安とされるG1レース4勝をあげているが、現時点では顕彰馬には選出されていない。 4歳春のクラシックには間に合わなかった点、5歳時(96年)に期待された天皇賞・春、有馬記念の惨敗等、不安定な成績で評価を下げた点や、主戦騎手田原の言動へのマイナスイメージとも考えられるが、実績ほどの評価を受けていないとも思える。 ただし顕彰馬については、2001年の選考制度変更もあり、G1を7勝したテイエムオペラオーでも選出までに引退後3年を経たり、やはり4勝を挙げたスペシャルウィーク、グラスワンダー、シンボリクリスエス、海外・交流を含めればG16勝のアグネスデジタルや、凱旋門賞2着のエルコンドルパサーでも現時点では選出されておらず、以前よりも選出されにくくなった点はある。
[編集] エピソード
- 成績には前述のとおりムラがあったが、これはマヤノトップガンの気性難から来るものであったと田原成貴は認めている。
[編集] 主な勝ち鞍
- 1995年 - 菊花賞、有馬記念
- 1996年 - 宝塚記念
- 1997年 - 阪神大賞典、天皇賞(春)
[編集] 代表産駒
- 2000年産
- チャクラ(ステイヤーズステークス、目黒記念)
[編集] 血統表
マヤノトップガンの血統 ヘイルトゥリーズン系/Nasrullah5×4=9.38% | |||
父
*ブライアンズタイム Brian's Time 1985 黒鹿毛 |
Roberto 1969 鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to |
Nothirdchance | |||
Bramalea | Nashua | ||
Rarelea | |||
Kelley's Day 1977 鹿毛 |
Graustark | Ribot | |
Flower Bowl | |||
Golden Trail | Hasty Road | ||
Sunny Vale | |||
母
*アルプミープリーズ Alp Me Please 1981 栗毛 |
Blushing Groom 1961 鹿毛 |
Red God | Nasrullah |
Spring Run | |||
Runaway Bride | Wild Risk | ||
Aimee | |||
Swiss 1974 栗毛 |
Gala Host | *ヴィエナ | |
Noble Lassie | |||
Fiji | My Host | ||
Huspah F-No.14-a |
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