ミホノブルボン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1989年4月25日 |
死没 | - |
父 | マグニテュード |
母 | カツミエコー |
生産 | 原口圭二 |
生国 | 日本(北海道門別町) |
馬主 | (有)ミホノインターナショナル |
調教師 | 戸山為夫(故人)(栗東) →松元茂樹(栗東) |
競走成績 | 8戦7勝 |
獲得賞金 | 5億2596万9800円 |
ミホノブルボンは、日本の競走馬。1992年の第52回皐月賞、第59回東京優駿(日本ダービー)を無敗で制した二冠馬。1991年最優秀3歳牡馬、1992年年度代表馬および最優秀4歳牡馬。当時最新の施設であった坂路での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ(腰から臀部にかけての筋肉)を持ち、機械のように正確なペースで逃げを打つことから、「坂路の申し子」「サイボーグ」「栗毛の超特急」と呼ばれた。馬名のミホノブルボンは、ミホノ=冠名、ブルボン=16世紀末からフランスに栄えたブルボン王朝をつなげたものである。ただし、外国表記は「Mihono Bourbon」で、外人記者には「ミホノバーボン」と呼ばれて「名の由来は毛色がバーボン・ウイスキーの色に似ているからか?」などという声もあった。
目次 |
[編集] 出自
ミホノブルボンは1989年4月25日カツミエコーの初仔として北海道門別町の原口牧場で誕生した。ミホノブルボンの父マグニテュードは、それまで桜花賞馬エルプスを輩出していたものの、生産界ではミルジョージの代替種牡馬というポジションであった。また、母父シャレーも、1970年代後半-1980年代前半の人気種牡馬であったダンディルート(ビゼンニシキの父)の代替種牡馬であった。さらに、母カツミエコーが地方競馬(南関東公営)の下級条件(1勝)馬で、さらに初仔ということもあり、生まれた当初のミホノブルボンの評価は非常に低く、わずか700万円という低額で取引された。
[編集] 戦績
1991年6月6日、栗東の戸山為夫厩舎に入厩し調教を積み始めた。そして9月7日、ミホノブルボンは中京競馬場の新馬戦(芝1000m)でデビュー、坂路調教で古馬顔負けのタイムを連発した(当時、古馬でも坂路500mを31秒台で走ればいいタイムと言われていたが、ミホノブルボンはデビュー前にして29秒9という驚異的なタイムを記録していた)こともあり圧倒的な1番人気(単勝1.4倍、2番人気ダイタクガイアは6.3倍)に支持された。レースではスタートで出遅れながらも直線一気の末脚で上がり3ハロン33.1(推定)で差しきり、58.1秒の3歳コースレコード(当時)で優勝した。なおデビューから引退まで調教師戸山為夫の弟子である小島貞博が手綱をとった。2ヶ月後11月23日の東京競馬場の500万下条件戦(芝1600m)は2番手から抜け出し2着に6馬身をつけて勝ち、続く12月8日、この年から3歳牡馬チャンピオン決定戦としてリニューアルされた第43回朝日杯3歳ステークスに出走。鞍上がやや抑え、2番手から早めに先頭に立ち、驚異的な勝負根性と二枚腰で直線強襲してきたヤマニンミラクルを鼻差抑えて優勝し、単勝1.5倍の1番人気に応え、騎手の小島貞博とともにGl初勝利を飾った。ミホノブルボンは3戦3勝の成績で3歳を終え、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出された。
翌1992年、ミホノブルボンはシンザン記念から始動する予定であったが1月8日、坂路調教中に左腰を捻挫したためこれを回避。4ヶ月の休養を挟んで3月29日第41回スプリングステークスに出走した。ここでは距離限界説が持ち上がったためノーザンテースト産駒の大物と言われたノーザンコンダクトが1番人気となり、ミホノブルボンは生涯唯一の2番人気となった。しかしながらそれをあざ笑うかのようにミホノブルボンは重馬場の中を単騎先頭に立ち、ハイラップを刻み2着に7馬身差をつけて優勝した(ノーザンコンダクトは11着に沈んだ)。またこのレースには後の短距離王サクラバクシンオーも出走していたが、ミホノブルボンのスピードについて行くことが出来ず、距離適性の差もあり惨敗した。4月19日第52回皐月賞もスピードに任せてハナを切り、終始セーフティリードをキープ、直線余裕を残したまま2着ナリタタイセイに2馬身1/2差をつけて逃げ切り、ミホノブルボンは5戦全勝のままクラシックを制覇した。5月31日第59回日本ダービーでは、ミホノブルボンの父マグニテュードの産駒の多くが短距離馬であったことから、2400mを逃げ切るのは不可能でないかという距離限界説もささやかれたが、スピードの絶対値の違いでスタートから先頭に立ち、他馬に影をも踏ませることなく2着のライスシャワーに4馬身差をつけて逃げ切り、デビューから6戦6勝の無敗でクラシック二冠を制した。
6月11日北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され夏を越し、9月9日に栗東に帰厩。そしてミホノブルボンは10月18日菊花賞トライアルの第40回京都新聞杯に出走し、2分12秒0の日本レコード(当時)で逃げ切り勝利、重賞5勝目を飾った。11月8日、本番の第53回菊花賞では、日本ダービーよりも600m長い3000mという距離に距離限界説が再燃したがその一方でシンボリルドルフ以来となる無敗の三冠馬誕生も期待され、ここでも圧倒的1番人気(単勝1.5倍、2番人気ライスシャワーは7.3倍)に支持されていた。レースでは事前に逃げ宣言をしていたキョウエイボーガンが先頭に立ち、ミホノブルボンは2番手を追走する形となった。ミホノブルボンは最終第4コーナーで先頭に立つが、残り100mで、スプリングステークスから負かし続けてきたライスシャワーにかわされ、さらに内から伸びてきたマチカネタンホイザにもかわされかけた。ミホノブルボンは類まれな勝負根性でマチカネタンホイザを差し返したが、結局ライスシャワーの2着(1馬身1/2差)に敗れた。しかしながらミホノブルボンの走破タイム、3分05秒2は従来のレコードタイムを上回っており、ブルボンが限界を超えて走ったことの証明であり、鍛えて最強馬を作るということのひとつの到達点となった。
その後はこの年から国際Glに格付けされた第12回ジャパンカップを目指し調整されていたが、11月24日、脚部不安を発症しジャパンカップ出走を断念。12月3日には有馬記念を回避することを正式に決定した。菊花賞後は一度もレースに出走していないが活躍が認められ、1992年JRA賞年度代表馬・最優秀4歳牡馬に選ばれた。翌年も復帰を目指したが1月27日に右後脚脛骨骨膜炎を発症していることが明らかになり更なる長期休養を余儀なくされる。2月4日に早来の吉田牧場に放牧に出され療養していたが、4月7日、右後脚第3中足骨を骨折してしまった。5月29日管理していた戸山調教師の死去に伴い鶴留厩舎に転厩、さらに9月21日に松元茂樹厩舎に転厩した。10月13日には福島県いわき市の「馬の温泉」に移動し懸命に復帰を目指したが結局かなわず、1994年1月19日に現役引退を正式に発表、同年2月6日に東京競馬場で小島貞博騎手を背にダービー優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行い3年5ヶ月の競走生活にピリオドを打った。その後、日高軽種馬協会で種牡馬生活に入ったが、JRAの重賞勝ち馬は出ていない。現在は日高町のファニーフレンズファーム(旧原口圭二牧場)で繋養されている。
また2004年6月13日にはJRA50周年記念キャンペーン(JRAゴールデンジュビリーキャンペーン)の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた(勝ち馬はエリモハリアー)。
[編集] 鍛えて作り上げた最強馬
当時関係者の間では、ミホノブルボンは本質的に短距離馬であると言われており、調教師の戸山為夫自身も「本来はスピードのみに恵まれた天性のスプリンター」と述べていた。しかし戸山は「鍛えて強い馬を作る」という信念のもと、徹底的に鍛え上げることで距離の限界も克服できると考え、ミホノブルボンに1日4本もの坂路調教を課した(一旦は1日5本を課したがさすがのミホノブルボンでも体調を崩したため、4本に戻されたという)。また3歳時に坂路調教を1日4本こなしたのはミホノブルボンがはじめてといわれている。このハードトレーニングによって鍛えられたミホノブルボンは距離限界説を退けて2400mの日本ダービーを勝ち、戸山の理論を体現する馬となった。その後戸山はミホノブルボンの故障が回復しない事を気にしながら、1993年5月29日に病没した。くしくもこの日は栄光のダービー制覇から1年、第60回日本ダービーの前日であった。
[編集] 競走成績
年/月/日 | 競馬場 | レース名 | 格 | 距離 | 騎手 | 重量 | 着 順 |
人気/ 頭数 |
タイム | 馬 場 |
1着馬(2着馬) | タイム 差 |
1991/09/07 | 中京 | 新馬 | 芝1000 | 小島貞 | 53 | 1 | 1/13 | 58.1 | 良 | (ホウエイセイコー) | -0.2 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
11/23 | 東京 | 500万下 | 芝1600 | 小島貞 | 54 | 1 | 1/11 | 1:35.1 | 良 | (クリトライ) | -1.0 | |
12/08 | 中山 | 朝日杯3歳S | GI | 芝1600 | 小島貞 | 54 | 1 | 1/ 8 | 1:34.5 | 良 | (ヤマニンミラクル) | ハナ |
1992/03/29 | 中山 | スプリングS | GII | 芝1800 | 小島貞 | 56 | 1 | 2/14 | 1:50.1 | 重 | (マーメイドタバン) | -1.2 |
04/19 | 中山 | 皐月賞 | GI | 芝2000 | 小島貞 | 57 | 1 | 1/17 | 2:01.4 | 良 | (ナリタタイセイ) | -0.4 |
05/31 | 東京 | 東京優駿 | GI | 芝2400 | 小島貞 | 57 | 1 | 1/18 | 2:27.8 | 稍 | (ライスシャワー) | -0.7 |
10/18 | 京都 | 京都新聞杯 | GII | 芝2200 | 小島貞 | 57 | 1 | 1/10 | 2:12.0 | 良 | (ライスシャワー) | -0.2 |
11/08 | 京都 | 菊花賞 | GI | 芝3000 | 小島貞 | 57 | 2 | 1/18 | 3:05.2 | 良 | ライスシャワー | 0.2 |
[編集] 血統表
ミホノブルボンの血統 (ミルリーフ系(ナスルーラ系)/Nearco 5×5=6.25%) | |||
父
* マグニテュード Magnitude 1975 鹿毛 |
Mill Reef 1968 黒鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah |
Lalun | |||
Milan Mill | Princequillo | ||
Virginia Water | |||
Altesse Royale 1968 栗毛 |
*セントクレスピン St. Crespin |
Aureole | |
Neocracy | |||
Bleu Azur | Crepello | ||
Blue Prelude | |||
母
カツミエコー 1983 青毛 |
* シャレー Chalet 1976 青鹿毛 |
Luthier | Klairon |
Flute Enchantee | |||
Christiana | Double Jump | ||
Mount Rosa | |||
ハイフレーム 1968 栗毛 |
* ユアハイネス Your Highness |
Chamossaire | |
Lady Grand | |||
カミヤマト | ライジングフレーム | ||
コロナ F-No.11-c |
カテゴリ: 1989年生 (競走馬) | サラブレッド | 日本生産の競走馬 | 日本調教の競走馬