ヤマト大王
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ヤマト大王とは、一般に3世紀後半から7世紀の終わり頃までの古墳時代から飛鳥時代の倭国(ヤマト王権)の王を指していう歴史用語である。5世紀後半までに治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が生まれ、この称号は飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで使われたと考えられている。
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[編集] 王の称号
「王」の称号は、古代中国の支配者を指したものである。周代には全土を統治する唯一の存在として王の称号があったが、戦国時代に入ると王の臣下であるはずの諸侯が争って「王」を自称したため、王が乱立した。その後、中国をはじめて統一した(紀元前221年)秦の秦王政は、価値を落とした王号に代わって新しい称号「皇帝」を称した。その後、漢が成立する(紀元前221年)と王号は皇帝の臣下として与えられるもの(諸侯王)として定着した。
その国内の臣下に対して与えられる王号が異民族諸国の長に対しても与えられるようになり、中国皇帝の下に諸民族の長たちが王として位置づけられる冊封体制が成立するようになる。
日本でもこれに当てはまる例がある。
- 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(『後漢書』光武帝紀、同東夷伝)
この光武帝が奴国の王に賜綬した「印」が有名な「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印である。北部九州の地域の国家が、中国王朝から「王」として認められたのである。
- 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(『後漢書』安帝紀、永初二年、107年)
帥升等とあるように、倭国王は地域の小国家ではなく、いくつかの小国の代表として「倭国の王」と考えることができる。「倭国」が誕生していたことを示すものである。この後は、卑弥呼を倭国全体の「王」として中国皇帝も認めていた。
このように、日本には古墳時代以前にも「王」の称号をもつ者がいたのである。
[編集] 大王号の成立
古墳時代の5世紀、倭の王たち(倭の五王)は中国皇帝に朝貢し、「倭国王」または「倭王」の称号が与えられていた。
倭の五王の最後の王と考えられるワカタケル(雄略天皇)は、国内において治天下大王の称号を名乗っていたと推測されている。熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文には「治天下□□□□□(わかたける)大王」とあり、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。ただし、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、大王号も併用されていたのではないかと考えられている。
和歌山県の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に以下の記述が見られる。
- 「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」(福山俊男)
「大王」や「男弟王」の言葉が使われている。癸未(きび)年は、383年、443年、503年、623年などの説がある。このうち443年(允恭、いんぎょう)と503年(武烈、ぶれつ)が有力である。443年を採ると5世紀の半ばには「大王」号が使われていたということになる。意紫沙加宮(おしさかのみや)(押坂宮)という宮号がみえる。しかし、釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても説が多い。肝心の紀年銘が異体字であるので解釈が多様化している。「大王」号の使用時期ははっきりしない。
第1回遣隋使(600年・推古8年)の上奏文に「姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩雞彌」とあり阿輩雞彌がおおきみと考えられている。
第2回遣隋使(607年・推古15年)の上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』倭国伝)と見え、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、一般的にはまだ「大王」という称号が使われていたらしい。
7世紀初期に聖徳太子が建立した法隆寺の金堂薬師如来像の光背銘に「池邊大宮治天下天皇」(用明天皇)、「小治田大宮治天下大王天皇」(推古天皇)とあり、治天下大王の称号が使用されていたことが推定される。しかし、この銘文自体が「天皇」「東宮聖王」などの用語や「大御身労賜時」のような日本風表現が使われており推古朝では早すぎることや、書風に初唐の趣のあることする説などがあり、多くの専門家から疑いがかけられている。
『日本書紀』大鷦鷯(仁徳)天皇即位前紀に「大王、風姿…」とつかわれ、允恭・雄略・顕宗・継体の各天皇でしばしば使われており、かなりはやくから「大王」が使われていた可能性はある。
『日本書紀』神代上第五段の第六の一書に「素盞嗚尊者、可以治天下也(スサノオは以て天下を治すべし)」、「雖然不治天下(然れども天下を治さずして)」とあり、「治天下」は必ずしも「大王」の上につく言葉ではない。
埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の裏面終わりの文に「吾左治天下令作此百錬利刀記吾奉事根原也」とある。この読みを「吾れ天下を左事す。此の百錬の利刀を作ら令め、吾が奉事のね根原を記す也」とする説がある。この場合「治天下」は「治天下大王」という称号の一部である可能性もあるが、定かではない。
[編集] 天皇号の成立
天皇号の成立時期は、二通りの説がある。一つ目は、天皇号がはじめて用いられた時代を推古朝(593年 - 628年)であるとする従来の通説。二つ目は、天皇号は皇后の称号とともに飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)で規定され、公式に使用された、という説。近年では後者の方の説が有力である。
君主の公的な称号としての天皇号の採用は、天武朝であった可能性が強い。唐の則天武后が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇号を採用したのではないか、と推測されている。「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が強く認められ、天武が天皇号を開始したとする説を補強している。
飛鳥京跡から「大津皇」「津皇」「皇子」などの字のみえる木簡(もっかん)の削り屑が出土している。これらは天武の皇子、大津皇子の名である。同時出土の他の木簡から天武10年(681年)と考えられている。皇子の称号が出てきたので、当然天皇の称号もこの時以前から使われていたであろうことは間違いない。これに加えて、『懐風藻』の序文では持統天皇以後についてのみ天皇号が用いられていることから考えて、天皇号は飛鳥浄御原令において公式に定められたと思われる。