ライアン・ハワード
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愛称 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | ![]() |
出身校 | ![]() |
誕生日 | 1979年11月19日 |
身長 | 6' 4" =約193 cm |
体重 | 252 lb =約114.3 kg |
血液型 | |
守備位置 | 一塁手 |
打席 | 左 |
投球 | 左 |
背番号 | 6 |
年俸 | 35万5000ドル(2006年) |
デビュー年 | 2004年9月1日 ブレーブス戦(MLB) |
キャリア | 3年 |
所属球団 | フィラデルフィア・フィリーズ |
前所属球団 | なし |
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ライアン・ジェームズ・ハワード(Ryan James Howard, 1979年11月19日 - )は、アメリカ合衆国のミズーリ州セントルイス出身の野球選手。一塁手、左投左打。現在はMLBフィラデルフィア・フィリーズ所属。
「バリー・ボンズの後継者」ともいわれており、ナ・リーグで現在最も警戒される左打者のうちの一人。2006年にシーズン本塁打球団記録をハワードに塗り替えられたマイク・シュミットは『私どころか、絶好調時のハワードは全盛期のボンズよりさらに危険な打者かもしれない』と語っている[1]。
目次 |
[編集] 経歴
ハワードは1979年11月19日、ミズーリ州セントルイスで生まれた。母親はマーケティングを行い、父親はIBMでマネージャーをしていたため、家庭は裕福だった。他に双子の兄弟がおり、ハワードを含めて3人とも大学を卒業している。
セントルイス・カージナルスの当時の本拠地球場ブッシュ・メモリアル・スタジアムから車で20分ほどの土地でハワードは育った[2]。ある日、父が野球の中継を見ていると、彼の傍らで当時2歳のハワードが赤いバットを振っていた。これをみた父はハワードの才能を見抜いて野球を始めさせた[3]。12歳のときには、球場のフェンスをはるかに越えて向かいにあったレッドロブスターの側壁を直撃した400フィート(約122メートル)の本塁打を放ったという[3]。
野球のほか、高校までにサッカーやバスケットボールをよくしていたが、アメリカンフットボールは怪我を恐れる母親に止められていた。高校ではまったく注目されず、サウスウェスト・ミズーリ大学へ進学し、野球に専念する。大学2年では全米代表チームにも選出されたが、木製バットに対応できずに評価を下げた[2]。
2001年にフィリーズがドラフト5巡目で指名し、入団。ドラフト直前の時期にスランプに陥ったため指名順がやや遅くなったという[1]。2003年にはAdv-A級のフロリダステート・リーグでMVPを受賞すると、翌2004年にはAA級とAAA級を行き来し、46本塁打、131得点を記録。AA級ではMVPと新人王を同時受賞した。メジャー昇格には十二分な成績であったが、この時は守備位置が重なる一塁にスター選手のジム・トーミがいたため、2005年もAAA級スクラントンでシーズンを始める。しかしシーズン中にトーミが怪我で離脱したため、代役としてメジャー昇格を果たす。その後打率.288、本塁打22本、打点63の成績をあげ、ナ・リーグ新人王を受賞する。出場試合数がわずかに88試合であった点は特筆に値し、スタメンに定着した2005年の7月1日から2006年6月までの非公式な1年間の通算成績は打率.295、本塁打46本、打点128となる。そのハワードの圧倒的パワーを目の当たりにした球団は、2004年の本塁打王ジム・トーミの放出を決断した。
2006年には開幕からレギュラーに定着した。7月、オールスターに初選出されると、試合前日に行われたホームランダービーで優勝した。シーズン後半には打率.355、30本塁打、78打点を記録し、8月・9月の2ヶ月連続でナショナルリーグの月間MVPを受賞した。特に8月には、直近34年間での最多記録となる月間打点42を記録している。シーズン通算では打率.313、58本塁打、149打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得した。58本塁打は、1980年にマイク・シュミットが記録した球団記録を10本上回っていた。また37の敬遠四球を受けており、これはこの年のメジャーで2番目に多い。この活躍が評価され、ハワードはナ・リーグMVPに選ばれた。ただ9月中旬にヒューストンのミニッツ・メイド・パークで放った本塁打性の当たりは、外野席にいた10歳のファンが捕球に失敗して外野に落ち、これを三塁塁審が誤審して安打としてしまっている。このため、本当の本塁打数は59本といわれている。
2006年の日米野球で訪日すると、7試合で5本のホームランを放ち、そのパワーを日本のファンにも見せつけた。特に第1戦で逆方向に放ったホームランは、下手すればショートライナーかレフトライナーと間違えるかのような打球がグングン伸びて、スタンドに飛び込んだ。
この年のハワードの給料は355,000ドルで、年俸調停の権利は2007年シーズンオフまでもてない。また、フリーエージェントになるのは2011年である。
[編集] 特徴
力と技術の備わった長距離打者で、左翼方向への本塁打が多い。通常、飛距離の出る本塁打は打席の反対方向に限られる。つまり、右打者であればレフト、左打者であればライト方向である。そのため、センターから打席と同じ方向へ強い打球を飛ばすのには、技術だけでなく膂力(りょりょく)を必要とする。ハワードにはこれが備わっており、結果として滅多に打球が飛ばないような場所にも打球を飛ばしている。2006年の58本塁打のうち、左中間から左への本塁打が29本塁打と半分を占めている。また、この年の4月に本拠地シチズンズ・バンク・パークでセンター方向へ放った本塁打は、飛距離496フィート(約151メートル)であった。実際、本人もニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで『(打席で)リラックスすればするほどスイングは鋭さを増し、集中すればするほどバットの出だしは遅くなる(=レフト方向への打球が増える)』と語っている。
またその外野への飛球に対する本塁打の割合が突出して高く、2006年はその数字が実に39.5%になり、2位のトラビス・ハフナー(インディアンス)の30.2%より9.3%も高い。つまり10本外野まで飛ばすと、その内、実に4本が本塁打となる。しかし同時に181もの三振を喫しており、これはメジャーリーグで2番目のワースト記録でもある。
[編集] トリビア
- 憧れていた野球選手は、野球を始めた頃はオジー・スミスやウィリー・マギー[2]。その後はバリー・ボンズ、ケン・グリフィー・ジュニア、そしてトニー・グウィンだった。
- 本塁打を放った打席での配球をほとんど全て覚えている。ニューヨーク・タイムズの記者と会食後に見た自身の本塁打をまとめたDVDで、その時の配球を逐一言い当て、記者を驚愕させている[3]。
- フィラデルフィア・フィリーズは黒人の受け入れを長年拒み続けていたという悪い意味での過去を持つチームで、実際最初の黒人選手がプレーしたのは1957年、ジャッキー・ロビンソンがデビューしてから実に10年も後のことで、ナショナルリーグでは一番遅い。ロビンソンはフィリーズを"北部にある南部気質のチーム"と評したコメントを残している。2006年の時点でフィリーズが擁したことのあるアフリカ系黒人のスタープレーヤーは、ハワードの他はディック・アレンのみである。
- 育った家庭には妙な家訓があり、車は必ずマニュアルでなければならないとしていた。これは父親がマニュアルでの運転を、人生で最も基本的な技術と強く信じていた事による。
- あまり服装にお金をかけず、ナイトライフにも浸らない。2006年時点で愛用する車もゼネラルモーターズのユコンで、走行距離は100,000マイルにまで達している。そのため、いわゆるブルーカラーの支持者が多いといわれている[3]。
- 独身であるが、以前付き合った女性との関係から6歳の息子がいる。
- 高校3年間でスポーツの傍ら、ブラスバンド部にも所属していた。そのため特技はトロンボーンの演奏である[4]。
[編集] 獲得タイトル
- ナ・リーグMVP 1回:2006年
- ナ・リーグ新人王:2005年
- 最多本塁打 1回:2006年(58本)
- 最多打点 1回:2006年(149打点)
- シルバースラッガー賞 1回:2006年
- ハンク・アーロン賞 1回:2006年
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 得点 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 犠打 | 犠飛 | 併殺打 | 盗塁 | 盗塁死 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | PHI | 19 | 39 | 11 | 5 | 0 | 2 | 22 | 5 | 5 | 2 | 0 | 1 | 13 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .282 | .333 | .564 | .897 |
2005 | PHI | 88 | 312 | 90 | 17 | 2 | 22 | 177 | 63 | 52 | 33 | 8 | 1 | 100 | 0 | 2 | 6 | 0 | 1 | .288 | .356 | .567 | .923 |
2006 | PHI | 159 | 581 | 182 | 25 | 1 | 58 | 383 | 149 | 104 | 108 | 37 | 9 | 181 | 0 | 6 | 7 | 0 | 0 | .313 | .425 | .659 | 1.084 |
通算 | 3年 | 266 | 932 | 283 | 47 | 3 | 82 | 582 | 217 | 161 | 143 | 45 | 11 | 294 | 0 | 8 | 15 | 0 | 1 | .304 | .399 | .624 | 1.023 |
※数字は2006年までのもの。太字はリーグ1位。
[編集] 参考資料
- ^ a b 杉浦大介「パワー全開 / ナ・リーグ二冠王 ライアン・ハワード [フィリーズ] 」 『月刊スラッガー』104号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-12、14-17頁。
- ^ a b c 福島良一「FACE IN THE CROWD」 『週刊ベースボール』2005年12月5日号、ベースボール・マガジン社、2005年、雑誌20441-12/5、85頁。
- ^ a b c d "Ryan Howard, No Asterisk," New York Times, New York Times Sports Magazine, March 2007
- ^ 『月刊メジャー・リーグ11月号増刊 イオン日米野球2006公式プログラム』、ベースボール・マガジン社、2006年、雑誌08626-11、34頁。