リットン調査団
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リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟(連盟)によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会より出された調査団の通称である。
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[編集] 概要
[編集] 調査団派遣の経緯
1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。
[編集] 調査団の要員構成
1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。
- リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド副総督
- アンリ・クローデル陸軍中将(フランス)62歳:フランス植民地軍総監
- アルドロバンディ伯爵(イタリア)56歳:外交官
- ハインリッヒ・シュネー博士(ドイツ)61歳:国会議員・元ドイツ領東アフリカ総督
- フランク・ロス・マッコイ陸軍少将(アメリカ)59歳
また上記の他に、紛争当事国からのオブザーバーとして、
- 吉田伊三郎:外交官
- 顧維鈞:外交官
も参加していた。
[編集] 調査団の旅程
調査団はまっすぐ満州入りするのではなく、日本、中国(上海、南京、北京)の視察も行っている。日本では荒木陸相、中国では蒋介石、汪兆銘、満洲では張学良と会談している。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は1932年6月に完了。8月より北京で調査報告書の作成を開始し、10月2日、報告書を公表した。
[編集] 報告書の内容
1932年10月2日に公表された報告書の内容は下記のとおり。
[編集] 結論
報告書では、中国・満州の実情を述べた後、下記のように論じている。
と、中国側の主張を支持しながらも、
- 満州に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られる。
[編集] 紛争解決に向けた提言
また、日中両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っている。
- 「柳条湖事件以前への回復(中国側の主張)」「満州国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
- 満州には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
- 満州は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
- 日中両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。
[編集] 報告書への各国の反応
満州事変を「内政干渉」としつつも日本にも一定の理解を示したこの報告により、連盟各国は和解の基礎が築かれたと大きな期待をもった。だが、報告書の公表前に満州国を承認し、「満州国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発。1933年2月の総会決議の結果、賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム(現・タイ王国))、松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場、翌月に国際連盟を脱退した。
[編集] 関連項目
[編集] 参考書籍
- ハインリッヒ・シュネー 著 金森誠也 訳 『「満州国」見聞記 ~リットン調査団同行記』講談社学術文庫、2002年、ISBN 4061595679