ルイジ・ノーノ
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ルイジ・ノーノ(Luigi Nono, 1924年1月29日 - 1990年5月8日)はイタリアのヴェネチアの作曲家。
ノーノは1941年にヴェネチア音楽院で理論をジアン・フランチェスコ・マリピエロに学び、その後大学で法学部を卒業している。その後1946年にブルーノ・マデルナに作曲をヘルマン・シェルヘンに作曲を学びセリー技法を習得する。後に電子音楽、偶然性の音楽、ミュージック・セリエルにおける主導的存在となった。ちなみに彼は1955年にアルノルト・シェーンベルクの娘、ヌリアと結婚していて彼のセリエル技法は直接シェーンベルクからの影響が強い。
1950年にダルムシュタット夏季現代音楽講習会に出席。そこでエドガー・ヴァレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンなどの作曲家と出会う。1950年代前半には、室内楽のための「ポリフォニカ-モノディア-リトミカ Polifonica-Monodica-Ritmica」(1951)、声楽を含む管弦楽曲「ガルシーア・ロルカへの墓碑銘 Epitaffio per Federico García Lorca」(1952-1953)、合唱と管弦楽のための「ゲルニカの勝利 La victoire de Guernica」(1954)、混声合唱と室内楽のための「愛の歌 Liebeslied」(1954)が生まれている。その後、彼は音楽的現象としての完全性を追求し、次第に表層的なセリー技法こそ拒否するようになるが、線描主義といわれる点描性は廃棄されていない。このため「時代遅れの表現主義者」としてシュトックハウゼンやブーレーズから批判され、その批判をヘルムート・ラッヘンマンらのアシスタントによって防御する。ラッヘンマンが執筆したテクストも「ノーノ著」とされて公刊された経緯に詳しい。50年代後半の作品には、「インコントリ Incontri」(1955)、「断ち切られた歌 Il canto sospeso」(1955-1956)、「ディドーネの合唱 Cori di Didone」(1958)等を作曲。
ノーノは共産主義者であった。1952年にはイタリア共産党に入党。彼の前衛音楽もまた、有産階級文化への反発手段となった。作品中で政治に対して訴えることも稀ではなかった。事実、彼に国際的名声を与えた「断ち切られた歌」(第二次世界大戦中における迫害の犠牲者の手紙に基づく)の他、「ポーランド日記 Diario polacco」(1958)、歌劇「不寛容 Intolleranza」(1960-61)、「光の工房 La fabbrica illuminata」(1964)、「アウシュヴィッツの出来事の追憶 Ricorda cosa ti hanno fatto ad Auschwitz」(1966)、「Non consumiamo Marx」(1969)、「一つの妖怪が世界をうろつく Ein Gespenst geht um in der Welt」(1971)、「ベトナムのための歌 Canto per il Vietnam」(1973)、「愛に満ちた偉大な太陽に向かって Al gran sole carico d'amore」(1975)など、彼の作品には政治的要素を含むものが多い。1956年以降、彼は次第に電子音楽に興味を持ち始め、同年にはグラヴェザーノに在るヘルマン・シェルヘンの電子音楽スタジオ(Elektroakustische Experimentalstudio)で、新しい作曲技法についてのシンポジウムに参加する。この分野では、ソプラノ、ピアノ、オーケストラとテープのための「力と光の波のように Como una ola de fuerza y luz」(1971-72)、ピアノとテープのための「苦悩に満ちながらも晴朗な波 ...sofferte onde serene...」(1974-77)、「愛に満ちた偉大な太陽に向かって Al gran sole carico d'amore」(1972-75)などを作曲。この時期のノーノの作品はダイナミクスも大きく、聞きにくい攻撃的な音響の類いの作品が多い。
1980年になると、社会主義の限界に創作意欲が枯渇するほどのショックを受けたノーノは、フライブルクにある南西ドイツ放送局ハインリッヒ・シュトローベル記念財団実験スタジオにおいてライヴ・エレクトロニクスを始める。社会との関りで得られる音ではなく、音の性質そのものを微視的に眺める鉱脈へ興味を持つことになった。この新しい姿勢は、「死の間近な時 ポーランド日記第2番 Quando Stanno Morendeo Diario polacco n°2」(1982)、「冷たい怪物に気をつけろ Guai ai gelidi mostri」(1983)、「クルターグへのオマージュ Omaggio a Kurtág」(1983)に加え、彼の最後のオペラとなった「プロメテオ Prometeo」(1984)といった作品で明らかになっている。同じ傾向の作品として、「断片――静寂、ディオティーマへ Fragmente - Stille, an Diotima」(1980)、「進むべき道はない、だが進まねばならない――アンドレイ・タルコフスキー No hay caminos, hay que caminar... Andrej Tarkovskij 」(1987)、ヴァイオリン、ライヴ・エレクトロニクスとテープのための「ノスタルジー的ユートピア未来の遠景 La lontananza nostalgica utopica futura」(1988)などがある。この時代においても点的に音楽を構築する態度はいささかも揺らぐことはない。1950年代のダルムシュタットから発案されたセリエリスムの思想に最大限忠実であったのは、ルイジ・ノーノただ一人であった。