ルイーズ・ド・ラヴァリエール
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ルイズ・ド・ラヴァリエールまたはルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(Louise de la Vallière, 1644年8月6日 - 1710年6月7日)は、フランス王ルイ14世の寵姫。公妾。
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[編集] 生涯
[編集] 束の間の寵愛
ルイーズは、1644年にトゥールで生まれた。
1661年に、イングランド王チャールズ2世の妹ヘンリエッタ・アンが、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップとの結婚のためフランスに向かう事になり、ルイーズは付き添いの侍女として王女に随行する事になった。しかし、へンリエッタの夫フィリップは男色家であり、全く妻に関心を示さなかった。新婚早々、夫から顧みられない思いをしたへンリエッタは、やがて義兄のルイ14世と不倫関係になった。王とへンリエッタの密会をカムフラージュするため、ルイーズが王の恋の相手を演じていた。ところが、そのうち本当にルイ14世はルイーズを恋してしまった。やがてルイーズはルイ14世の寵姫になり、1663年にシャルル、1665年にフィリップ、1666年にマリー・アンヌ(コンティ公ルイ・アルマン1世妃)を、1667年にルイ(ヴェルマンドワ伯爵)を生んだ。
しかし移り気なルイ14世は、美しく無欲で慎ましく素朴だが機知に富んではいないルイーズに飽き始めていった。そして、国王の寵愛は1666年に出会ったモンテスパン公爵夫人に移っていった。彼女は華やかな美女で、辛辣なユーモアを持ち、機知に富んだ女性だった。
[編集] 失意の日々
1667年、ルイーズは国王からヴォージュール伯爵夫人の称号を与えられ、ヴォージュールの領地を与えられた。しかし、この年に勃発したフランドル戦争の戦地へルイ14世と共に向かう女官のリストに、ルイーズの名前はなかった。ルイーズは、ルイを身篭っている身重な体だったが、自分も同行させてくれるよう頼んだ。しかし、王からはヴェルサイユに留まるようにと冷たく言い渡された。しばらくルイーズは、ヴェルサイユ宮殿で鬱々とした日々を過ごしていたが、ルイ14世への想いは抑えられず、ついに王のいるコンピエーニュに馬車で向かった。身重の体で戦地に駆けつけたルイーズに対して、やはり王の態度は素っ気なかった。
王妃マリー・テレーズは、ルイーズの存在に苦しむ事もあったが、「まるで野に咲いた可愛いすみれのよう」だとし、憎む事はなかった。一方、わがままで気性が激しいモンテスパン侯爵夫人については「この辻君は、いつか国を滅ぼすでしょう」と言って嫌っていた。ルイーズは王を愛しながらも、常に王妃への罪悪感に悩まされていた。モンテスパン侯爵夫人に王の愛を奪われたルイーズは、やがて彼女の召使のように扱われるようになってしまい、辛い思いをするようになった。さらにルイ14世はルイーズに対して、日頃から辛く当たり恋敵でもあるモンテスパン侯爵夫人と仲良くするように求めたのである。ルイーズはそれから長い間失意の日々を送っていたが、王への愛からなおもヴェルサイユに留まっていた。
[編集] 修道院入り
日々の苦しさについに耐えかねたルイーズは、1669年にシャイヨーにある聖母訪問会女子修道院に身を寄せた。しかし、体面を気にしたルイ14世によって再び宮殿に連れ戻された。それでもルイーズは1674年に、今度こそ安らかな信仰に生きようと、カルメル会修道院に入る事を決意した。ところが修道院長からは、この修道院は処女のみが入る事を許される修道院である、と断られてしまった。ルイーズはなおもあきらめず、その日から何日も修道院に通い続けて許可を求めた。根負けした修道院長は、ついにルイーズのカルメル会修道院入りを許可した。
このことを知り、自分の体面を気にしたモンテスパン侯爵夫人は、ルイーズのカルメル会修道院行きを阻止するよう、スカロン夫人(マントノン侯爵夫人)をルイーズの許に送った。しかしスカロン夫人も、ルイーズ同様モンテスパン侯爵夫人にこき使われており、この傲慢な主人に好感を抱いておらず、むしろ優しくて控えめなルイーズの方に好感を抱いていた。スカロン夫人は、主人の体面を守るためではなく、戒律の厳しいカルメル会修道院に行こうとしているルイーズの身を案じ、修道院行きを止めようとした。しかし、ルイーズの決意は固かった。ついにスカロン夫人もあきらめ、ルイーズの意志を尊重する事にした。カルメル会修道院に入る前に、ルイーズは長い間苦しめた事を王妃に詫びた。
1710年にルイーズは死去した。