ルール地方
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ルール地方(ルールちほう、独:Ruhrgebiet)は、ライン川とルール川下流域に広がる、ドイツ屈指の重工業地帯。
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[編集] 地理
ノルトライン=ヴェストファーレン州の中心に位置する、南にルール川、西にライン川、北にリッペ川が境となっている工業地域。行政区分とは無関係で、デュッセルドルフ、ミュンスター、アルンスベルクの三つの行政区をまたいでいる。主要都市としてエッセン、デュースブルク、ドルトムント、ボーフム、ゲルゼンキルヘンなどドイツを代表する工業都市が集中している。
近郊にはデュッセルドルフ、ケルン、レバークーゼンがルール地方南部にライン川に沿って存在する。これらも同じノルトライン=ヴェストファーレン州に属する大工業都市だが、厳密にはルール地方(またはルール工業地帯)ではなくライン工業地帯の一部として見なすのが正しい。
[編集] 歴史
[編集] ドイツ帝国時代
19世紀後半の第二次産業革命による、欧州・米国の鉄鋼・機械・化学などの重工業の発展は、ドイツにも押し寄せたが、統一前のドイツは多くの国に分かれ、十分な経済圏が欠如しており、基本的には農業国と言えた。
1870年、プロイセンを盟主とするドイツ連合軍は、普仏戦争でフランス皇帝ナポレオン3世を捕虜にし、1871年、ヴェルサイユ宮殿で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は統一ドイツ帝国皇帝に即位した。
ここに、ドイツは広大な統一経済圏を得、豊富な石炭を産するルール工業地帯を中心に、工業力は急速に高度の水準に達し、工業生産力は英仏米と肩を並べるに至った。そして、一流の帝国主義国家へと発展していく。
ドイツ帝国時代は、帝国主義国家として列強に負けない軍備の拡張が優先され、バルト海に面する造船所では英国海軍並みの海軍力が追及される一方、陸軍力もルール工業地帯に巨大な製鉄所と兵器工場を持つクルップ社を象徴にライフル・大砲、1886年ダイムラー・ベンツの内燃機関の発明は20世紀には装甲車として兵器化、1903年初飛行の飛行機も兵器化された。
[編集] 戦間期
ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の性急な拡張政策は、第一次世界大戦を招き、長期化した戦争は革命を招き帝政は崩壊、ドイツは敗戦国となった。大幅に領土を削られ、巨額の戦争賠償金の支払いの義務付けられ、鉄鉱石産出地のアルザス・ロレーヌ地方も失ったが、幸い、戦争はドイツ国境外で行われたため、ルール地方の生産財は無傷だった。
しかし、革命の余波はルール地方も吹き荒れ、エッセン・デュッセルドルフなどで、左翼暴動が相次いだ。その上、戦争賠償金の早期支払いを迫るフランスの占領を受け(ルール問題)、ドイツは工場に全面停止を呼びかけて抵抗した。その結果ドイツ経済は破綻状態になり、ハイパーインフレーションに陥ってしまった。
ようやく1924年になり通貨は安定し、国際連盟への加入も認められ、戦争賠償金も軽減され、主に米国向けの輸出と米国からの投資を中心に経済も安定期に入った。ルール地方も徐々に活況を呈していく。が、1929年米国を襲った経済恐慌は、米国への輸出頼みの世界各国を直撃し、世界恐慌に拡大してしまう。重工業地帯のルール地方は、真っ先に世界恐慌の直撃を受けた。全国平均の失業率30%を超える失業者の群れであふれかえった。
やがて、無策な連立政権が続くワイマール共和国への幻滅から、ドイツ人はナチスに1933年全権を委ねてしまう。ヒトラーは、有名な全国でのアウトバーン建設などとは別に、外国製品の輸入禁止や、ルール工業地帯への国家投資も盛んに行った。1935年のドイツ再軍備宣言後は、抑制されてきた軍需産業も急速に復興していき、1936年には失業問題は解決した。
しかし、同年のルール地方も含む、非武装地帯とされたラインラントへの軍事進駐(ラインラント解放)が行われる。
[編集] 戦後
ヒトラーの野望は、1939年第二次世界大戦を招き、結局ドイツはまたも敗戦国となった。第一次世界大戦と異なり、ルール工業地帯は英米軍による戦略爆撃の重点的な攻撃目標になり、生産財も労働者も無傷では済まなかった。都市だけでなく、背後の輸送機関も重要な攻撃対象となり、工業機能は完全に麻痺した。
「侵略を防ぐため、ドイツ工業は徹底的に解体すべきだ」との過激な主張を抑えたのは、東西冷戦の開始だった。
ソヴィエト連邦は、既に東欧の占領地で共産党以外の政党を全て排除しており、ドイツでも1946年ドイツ社会主義統一党による独裁体制を建設した。1949年、ドイツは西側占領地区はドイツ連邦共和国、ソ連占領地区はドイツ民主共和国として、民族分断の時代に入り、東西対立の最前線となった。
ベルリンやドレスデンといった東側工業都市を失った西側では、ルール工業地帯の重要性が増してきた。西側欧州の重工業の中心として、復興が急速に進んだ。ルール工業地帯をはじめ、西側欧州の鉄鋼業発展のため、さらに地下資源の争奪のための紛争を防ぐため、1952年にフランス・ベネルクス三国と西ドイツが参加して欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。これはお互いの石炭と鉄鉱石を融通するのみならず、生産・価格・労働条件などの共同管理をも行うもので、1967年のイタリアも加わった包括的欧州経済統合計画欧州共同体(EC)結成から、1993年の政治的統合をも目指す欧州連合(EU)へと繋がっていく。
機械や化学といったほかの重工業も復興し、西ドイツは世界有数の工業国として再生した。
[編集] 東西ドイツ統一後
東ドイツは東側諸国では随一の工業国であったが、西ドイツに併合され統一ドイツになると、西側から見た技術レベルの遅れは明白で、ルール工業地帯の重要性は変わりなかった。
IT産業が発展した現在でも、輸出に依存するドイツ経済を支える重要な地域である。