レパード玉熊
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レパード玉熊(れぱーどたまくま、LEOPARD TAMAKUMA、1964年1月25日 - )は、元ボクシングWBA世界フライ級チャンピオン。本名は玉熊幸人(たまくま ゆきひと)。
青森県出身で畑山隆則と同郷である。畑山にボクシングの興味を示すきっかけを作った。
通算成績33戦27勝(13KO)5敗1分。左ファイター。法政大学ボクシング部、国際ジム出身。
顎の脆さをカバーするため、顔を打たれないよう顔面のみの防御に集中し、ボディを打たれても効かないくらいまで徹底的に鍛え上げた。手足が長いが、アウトボクシングではなく接近戦を得意にし、至近距離で相手のパンチをガードしながら効果的にボディブローやカウンター攻撃する技術力の高さに定評がある。日本王座を獲得した試合では、ボディを打たれるたびにわざと苦しそうに唸り、相手の意識をボディに集中させるなど、頭脳的なボクサーである。
試合の入場曲は、フィル・コリンズの「something happened on the way to heaven」これがきっかけで、ボクシング番組「ダイナミック・グローブ」のテーマソングにもなる。
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[編集] 経歴
青森県立青森商業高等学校で、当初体操部に入部しようと部室を訪れたが誰も居らず、隣のボクシング部から声を掛けられ入部。当初は右のオーソドックスタイルだったが、1年の秋監督のアドバイスにより、サウスポーに転向。2年の春季大会では、県モスキート級チャンピオンに輝き頭角を現す。 3年のインターハイ・ライトフライ級決勝戦では、沖縄水産の新垣諭と後の世界王者対決で判定の末、負け準優勝
高校卒業後は、スポーツ推薦で法政大学経営学部に現役進学。法政大学ボクシング部へ所属したが、同級生の不祥事でボクシング部が休部~大学を1年で中退し、40戦33勝(2KO)7敗のアマチュア実績と才能を高橋美徳会長に認められ国際ジムへ所属した。
全日本ライトフライ級新人王~その後「レパード玉熊」としてそしてA級ボクサー賞金トーナメントフライ級優勝、日本フライ級チャンピオンになり、4度の防衛に成功。
1989年3月5日、故郷・青森で世界初挑戦。WBCフライ級王者・金容江(韓国)に挑んだが、12回判定負け。しかし、周囲からは「勝っていた」という声も多く聞かれ、この試合で評価を高めることになる。
翌1990年7月29日、世界再挑戦。WBA世界フライ級王者・李烈雨(韓国)に挑み、これまでダウン経験のない王者から2度のダウンを奪い、堂々の10回TKO勝ち。見事、青森出身者初の世界王者に輝いた。この試合に備え小熊正二を特別トレーナーに招聘
世界王座獲得後の格闘技雑誌の取材などで「大場政夫さん(5度防衛)を超える6回防衛したい」とコメントしていたが引き分けで初防衛成功後の1991年3月14日、2度目の防衛戦でエルビス・アルバレス(コロンビア)に12回判定負けを喫し、王座陥落。ちなみに大場が所属していた帝拳プロモーションが玉熊の世界戦の開催に尽力し、大場の世界戦と同様に日本テレビ系列で全国生中継
試合後、左眼網膜剥離が判明し、結局この試合を最後に引退。目のダメージで引退することになった。
引退後は古巣・国際ジムのトレーナーを務めプロスパー松浦、セレス小林らを指導、現在は東京都千代田区九段に"レパード玉熊ジム"を開設。後進の育成に力を入れている。(国際ジム・トレーナー就任直後、函館の高校3年生でライトフライ級アマチュアボクサー山口圭司をスカウトに動き内定に漕ぎ着けたが、土壇場で井岡弘樹の属するグリーンツダボクシングクラブに奪われた。これは山口のボクサーを志すキッカケや憧れの対象が井岡であった事に起因しており、玉熊自身に瑕疵は無い)
玉熊と同じく長身でリーチの恵まれた同じく全日本ライトフライ級新人王経験者八尋史朗はオーソドックスのため、玉熊引退後に「右の玉熊」とボクシング専門誌に書かれた。(ちなみに八尋は、大場と同じ帝拳所属で大場と同じ桑田勇門下生)
レパード玉熊ジム会長として、日本初の国立大学出身(東京工業大学理学部地球惑星学科)の小林秀一を日本ウェルター級チャンピオンに育て上げた。また、レパード玉熊という当時の世界王者としては珍しい高学歴で真面目、温厚な性格のためか、ジムに所属するプロボクサーも高学歴が多い。
2006年11月には、元世界王者の輪島功一、渡嘉敷勝男、飯田覚士、戸高秀樹らとともに、袴田事件の再審を求める要請書を、最高裁判所に提出。元ボクサー袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。
[編集] 主な功績
- 全日本ライトフライ級新人王
- A級トーナメントフライ級優勝
- 日本フライ級チャンピオン
- WBA世界フライ級チャンピオン
- 青森県民市民栄誉賞
- 荒川区民栄誉賞
- ボクシング最優秀選手賞
- 報知プロスポーツ大賞受賞
[編集] 戦績
33勝27勝13KO5敗1分(世界戦績1勝2敗1引)
戦目 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
1 | 1983年5月21日 | 勝 | 4R | 判定 | 三沢拓人 | 日本 | 無し |
2 | 1983年7月8日 | 勝 | 4R | 判定 | 関猛 | 日本 | 無し |
3 | 1983年9月27日 | 勝 | 4R | 判定 | 大胡幸喜 | 日本 | 無し |
4 | 1983年11月10日 | 勝 | 4R | 判定 | 横沢健二 | 日本 | 無し |
5 | 1983年12月17日 | 勝 | 6R | 判定 | 渡真利誠司 | 日本 | 全日本新人王獲得 |
6 | 1984年2月22日 | 勝 | 6R | 判定 | 小山和久 | 日本 | 無し |
7 | 1984年5月3日 | 負 | 8R | 判定 | 正木高浩 | 日本 | 無し |
8 | 1984年7月30日 | 勝 | 6R | KO | 谷内均 | 日本 | 無し |
9 | 1984年10月12日 | 勝 | 7R | 判定 | 吉元勝 | 日本 | 無し |
10 | 1984年12月17日 | 負 | 10R | KO | 喜友名朝博 | 日本 | 無し |
11 | 1985年3月28日 | 負 | 8R | 判定 | 横沢健二 | 日本 | 無し |
12 | 1985年6月18日 | 勝 | 7R | KO | 角田豊 | 日本 | 無し |
13 | 1985年8月22日 | 勝 | 8R | 判定 | 中村欣也 | 日本 | 無し |
14 | 1985年10月27日 | 勝 | 4R | TKO | 松本友男 | 日本 | 無し |
15 | 1986年2月27日 | 勝 | 10R | 判定 | 船木一良 | 日本 | 無し |
16 | 1986年5月22日 | 勝 | 3R | KO | 高橋正之 | 日本 | 無し |
17 | 1986年7月23日 | 勝 | 6R | 判定 | 中島俊一 | 日本 | 無し |
18 | 1986年9月25日 | 勝 | 8R | 判定 | 名嘉間堅徳 | 日本 | 無し |
19 | 1986年11月27日 | 勝 | 7R | KO | 田中正人 | 日本 | 無し |
20 | 1987年2月26日 | 勝 | 10R | 判定 | 西川浩二 | 日本 | 日本フライ級タイトル獲得 |
21 | 1987年5月28日 | 勝 | 10R | 判定 | 西川浩二 | 日本 | タイトル防衛1 |
22 | 1987年7月20日 | 勝 | 4R | KO | ペッチチャイナート・ドーンチェディー | タイ | 無し |
23 | 1987年9月21日 | 勝 | 7R | KO | 松島鉄美 | 日本 | タイトル防衛2 |
24 | 1987年11月30日 | 勝 | 7R | TKO | エリセール・バウチスタ | フィリピン | 無し |
25 | 1988年2月25日 | 勝 | 10R | 判定 | 松島鉄美 | 日本 | タイトル防衛3 |
26 | 1988年6月5日 | 勝 | 4R | KO | 徳島尚 | 日本 | タイトル防衛4、世界戦挑戦のためタイトル返上 |
27 | 1989年6月5日 | 負 | 12R | 判定 | 金容江 | 韓国 | WBC世界フライ級タイトル挑戦 |
28 | 1989年7月8日 | 勝 | 3R | KO | ポーンモンコル・チョビクル | タイ | 無し |
29 | 1989年11月11日 | 勝 | 3R | KO | レックス・ラピソ | フィリピン | 無し |
30 | 1990年5月10日 | 勝 | 10R | KO | フラッシュ・コロニア | フィリピン | 無し |
31 | 1990年7月29日 | 勝 | 10R | TKO | 李烈雨 | 韓国 | WBA世界フライ級タイトル獲得 |
32 | 1990年12月26日 | 引 | 12R | 判定 | ヘスス・ロハス | ベネズエラ | タイトル防衛1 |
33 | 1991年3月14日 | 負 | 12R | 判定 | エルビス・アルバレス | コロンビア | タイトル失冠 |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
前王者 西川浩二 |
第33代日本フライ級王者 1987年2月26日 - 1988年9月5日 |
次王者 大鵬健文 |
前王者 李烈雨 |
第23代WBA世界フライ級王者 1990年7月29日 - 1991年3月14日 |
次王者 エルビス・アルバレス |