一向俊聖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本教義 |
---|
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
|
部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
|
ウィキポータル |
一向 俊聖(いっこう しゅんしょう、暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?)は、鎌倉時代の僧侶。伝記に謎が多く、実在が疑問視されていたが、考古遺物により、存在が証明された。
目次 |
[編集] 略歴
筑後国西好田の草野家に生まれる。同家は久留米善導寺を建立した大檀越で、法然浄土教の影響を色濃く受けていた。書写山などで修行し、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となる。その後、各地を遊行回国し、踊り念仏を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
主な門下に行蓮、礼智阿尊覚らがいる。弟子は列島各地に散在していた。
一向の詳しい伝記は『一向上人伝』という絵巻によるほかない。これは番場蓮華寺を正統とする立場から近世に書かれたと考えられる。したがって、同じ一向の系統を引く寺院の多い出羽国方面に伝わる伝承とはかなり異なる。鎮西派ではなく、西山派の僧であったとする系譜もある。そしていずれの伝承も、内容が説話化していて信憑性に欠けるところがあった。しかし近年山形県天童市の高野坊遺跡より、応長元年(1311年)に「一向義空菩薩」二十七年忌をおこなったことを墨書した礫石経が多数出土し、一向の菩薩号が義空であるという伝承に一致することから、一向の実在が立証された(ただし没年がずれることになる)。これは中世宗教史上、特筆すべきである。なお同時代に近い史料としては「一向上人臨終絵」(南北朝期、個人蔵)がある。
[編集] 一向の時衆(一向宗)
東北、北関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成していた。鎌倉時代末期に書かれた『天狗草紙』・『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向は、同時期の一遍房智真と同様に、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、時衆とみなされていたようである。勿論、前述の通り、一遍と一向は全く別箇に教団を開いたものであるから、一向の宗派を一遍の時宗に加えるのは本来は正しいとは言えない。蓮如は『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記しているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
近世には、江戸幕府の命により、清浄光寺を総本山とする時宗の管轄下におかれた。『時宗要略譜』によると時宗十二派のうち、一向派、天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。当然のように一向宗は再三に亘る独立運動を起こすも実らなかった。大半の寺院が時宗を離れ、浄土宗に帰属したのは1943年である。
また、一向宗を参照。
[編集] ゆかりの寺院
- 番場蓮華寺。墓所と荼毘地が遺る。師である良忠の蓮華寺(現光明寺)から寺号を取ったという。旧時宗大本山、現浄土宗本山。
- 天童仏向寺。墓所があり、一向開山と伝えるが、実際には行蓮によると考えられる。
- 山ノ内光照寺。鎌倉にいた一向が開いたという。木造立像あり。