上杉謙信女性説
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上杉謙信の女性説(うえすぎけんしんのじょせいせつ)は、越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったとする説である。
現在、女性説という学説はない。
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[編集] 経緯
- 歴史小説家である八切止夫が、スペイン革命時のトレドで、当時は城砦として使用されていた修道院から、15世紀から16世紀の舟乗りや宣教師による日本についての報告書を発見し、その中の佐渡金山に関する記述に上杉景勝の叔母という言葉を見つけ、独自に上杉謙信の女性説を研究し、1968年の読売新聞夕刊の連載小説に『上杉謙信は男か女か』が掲載された。
- 女性説への反証は、国学院大学の日本史学者である桑田忠親などによってなされている。そもそもの発端である八切止夫氏説は、史料批判の甘さや当該時代背景の解釈での問題点が指摘され、現在では氏の提言のいくつかは実証主義に基づいた女性説の根拠となりえない。しかし、女性説の可能性を指摘した氏に共感する人たちによって、現在も、旧知の史料の新解釈を通した女性説の議論、検証が行われている。
- 以下に記載されている、現在語られている女性説は、故八切止夫によって提唱された説から発展し、その説に共感した人たちによっていくつかの根拠が付け足されたものである。
[編集] 女性説の内容
上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は多くあり、そのひとつとして女性説は存在する。
[編集] 女性とされる根拠
- 謙信の死因について、現代で言うところの「更年期障害による婦人病の一種」である「大虫」と、松平忠明の著と言われる『当代記』に記載されている。謙信が春日山城の厠(トイレ)で倒れた点、倒れた時期が3月9日という点、享年が49歳という点も納得できる。
- 毎月10日前後に原因不明の腹痛が発生し、合戦中にも拘らず兵を引き部屋に引き篭もったという逸話がある。島原の乱の後に編纂された『松平記』によると、北条軍が上杉領に侵攻してきた際に6月11日から10日間ほど腹痛を訴え、出陣せずに城内にて子守をしていたとされる。この10日前後に周期的に発生する腹痛とは生理痛ではないか(ただし、第四次川中島の戦いや七尾城の戦いは10~20日前後にも行われてることから、毎月必ず出陣を見合わせていたわけではない)。
- 米沢藩(上杉家)にて設立された上杉神社には謙信の衣類が数点残されているが、真っ赤であったり、舶来の生地をパッチワークに仕上げていたりと、現代の目から見れば男物とは思えない物である。また、謙信が女物を好むような傾奇者という言い伝えはない。
- 謙信が書いた書状や願文などを見ると、筆跡、表現、気の使い方が柔らかく繊細であり、女性的な面が多くみられる。
- 当時の手紙に謙信が女性的な扱いを受けているものがあったという逸話がある。
- 生涯不犯の誓いをたてたはずの上杉謙信だが、男性宛てよりも女性宛ての手紙の方が多く残されていたという逸話がある。
- 家臣や他の領主に対して、彼らの姉妹や妻を通じての懐柔工作を行うことに長けていた。
- スペインのゴンザレスという人物が日本についての調査報告書を国王宛て(フェリペ2世)に送ったが、その報告書に謙信のことを「景勝の伯母」と記載している(景勝は謙信の姉・仙洞院と長尾政景の間に生まれた子である)。
- 源氏物語や伊勢物語などの恋愛物を好んで読んでおり、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌(恋歌)を読み、参加者全員を驚かせたという逸話がある。
- 当時、民衆の間で謙信のことを「男もおよばぬ大力無双」(男性を差し置いて、またとない強さ)と歌った瞽女(ゴゼ)歌があった(資料である越後長岡の『山本ごい文書』は散逸)。
- 各地の白山神社の御神体は男女一組だが、越後の白山神社のみ馬に乗った女性である。更に白山神社白山堂には女神像があり「毘」の旗を差し、春日山城(現在は跡地)と向かい合っていた。
- 現在良く見られる上杉謙信の肖像画はヒゲがあり見るからに男性であるが、これは江戸時代に描かれたものである。当時の上杉謙信を描いたとされる肖像画が存在するが、それにはヒゲはなく、女性を描いた時によく現れるふっくらとした頬を持つ顔で描かれている。また、生前に謙信が描かせた木盃の絵があり、杯や盃は女性の隠し言葉とされている。
[編集] 男性として語り継がれた背景
- 当時(戦国時代)女性城主に、立花誾千代、井伊直虎、織田信長の叔母おつやの方など、安土桃山時代には足利氏姫、淀殿などがおり、女性城主は特に珍しいことではなかったが、江戸時代に入り徳川家が幕府を開き、武家諸法度が成立され、それにより女性城主は一切認められなくなった。
- 徳川家が名実共に武家のトップとなり独裁政権を確立したため、それまで敵対していた各勢力は散々な処置がとられ、同様に関ヶ原の戦い以前から敵対していた上杉家も滅亡の危機に瀕していた。(実際、上杉家は謝罪によりやっと許しをもらったが大幅に土地を没収され、米沢30万石に減転封されている。)
- 更に外様大名ということで上杉家の立場は弱かった。
- 外様大名は言い掛かりともとれる内容や、些細な不備などで咎められて減封されていったため、上杉家も同様に徳川家に対しどんな些細な弱みとなるものも見せる訳には行かなかった。(1664年には嗣子不在により吉良義央より養子を迎えるが、15万石に半知削封されている。)
以上のような背景から上杉家は武家諸法度の「城主=男」により「謙信の代でお家断絶しているな」と言い掛かりをつけられるのを恐れ、謙信が女性という証拠になるものを処分し、無理矢理男性にする必要があった。
[編集] 批判
批判に対する批判も含む。
- 林泉寺に入門(出家)しており、林泉寺の出家は男でなければできない。
- 住職の天室光育から教育を受けていたことを示す謙信の手紙は残されているが、出家そのものを裏付ける一次史料はなく、天室光育は春日山城の麓にある、長尾家の菩提寺である林泉寺の住職とともに春日山城での教育係を任せられていたとも考えられる。
- 女人禁制の高野山に登り、清胤の元を訪れて後にその弟子となっている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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