上田馬之助 (プロレスラー)
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上田馬之助 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 上田馬之助 ミスター・イトー |
本名 | 上田裕司 |
ニックネーム | まだら狼 金狼 |
身長 | 190cm |
体重 | 118kg |
誕生日 | 1940年6月20日 |
出身地 | 愛知県一宮市 |
スポーツ歴 | 大相撲 |
デビュー | 1961年4月 |
引退 | 1998年4月16日 |
上田 馬之助(うえだ うまのすけ、1940年6月20日 - )は、元大相撲力士、日本の元プロレスラー。本名:上田 裕司(うえだ ゆうじ)。愛知県出身。身長190cm、体重118kg。頭髪をまだらに金髪に染めていた事から「まだら狼」と呼ばれた。
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[編集] 経歴
1958年に高校を中退して追手風部屋に入門。その後間垣部屋に移る。当時の四股名は「上田山」→「海部錦(あまにしき)」。
1960年に、追手風部屋に同期入門した仲間である林牛之助(ミスター林)の誘いで、力士を廃業し日本プロレスに入門。1961年4月プロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、ショー性を一切排した「ガチンコ」に滅法強いといわれていた。
1966年にアメリカに渡り「ミスター・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年3月に帰国し、1973年に大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得した。
日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスへ参戦したが前座扱いだった為フリーの身となり、すぐに渡米、南部地区を中心に転戦した。1976年5月に国際プロレスへ参戦時に、前髪を染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身してし、ラッシャー木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げIWA世界ヘビー級王座を獲得した。1977年に新日本プロレスへ参戦し1978年にアントニオ猪木と釘板デスマッチで激闘を展開したり、タイガー・ジェット・シンとのタッグで北米タッグ王座を獲得する等、トップヒールとして活躍した。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。1981年に再び全日本プロレスへタイガー・ジェット・シンと共に参戦したが、またしてもシンと仲間割れをし全日本プロレスを去る。そして新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日正規軍入り、UWF軍との5対5のイリミネーション・マッチでは、前田日明と引き分ける。その後はインディー団体を転戦した。
1996年3月に不慮の交通事故に遭遇。フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩きつけられ、普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩きつけられる直前、無意識に受身をとっていた事で一命を取り留めた。本人は車が衝突した瞬間以降の事は覚えていないらしい。
その事故により脊椎損傷の大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催の引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。
その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っている。
[編集] 人柄
常に竹刀を片手にし、レスラー人生を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物である。
- 相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、達筆としても知られていた。
- サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「プロレスにライセンス制度を導入すべきだ」というような発言もしている。
- ライバルを問われると「お客さん」と答えた。観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
- 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
- 徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。
- 以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期がある。
- 自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍。
- 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞いたとき、「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
- 交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
- 唯一の出演CMと思われるトライデント・シュガーレスガムで美保純と共演。(1983年)「歯を大切に」というコンセプトを掲げるガムに対して「歯なんかどうだっていいでしょう」と発言し、天罰の雷を浴びて黒焦げになるというコミカルな悪役を演じていた。
- 外人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
- 上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
- 5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
- 深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
[編集] 密告事件
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。
ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、この事に気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。
当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。
ただ2007年1月より東京スポーツにて連載中の「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」と語っている。上田は「証拠となるメモも残っている」と語っており、これが事実なら定説が覆ることになるが、今となっては馬場を含め当時の関係者の多くが亡くなっていて事実関係を検証するのは困難であり、真相は藪の中というのが現状である。
いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、その後日本プロレスは崩壊し「全日本プロレス」と「新日本プロレス」が誕生した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。馬場・猪木・上田のみならず日本のプロレス界にとっても重要な出来事であり、三者の心に暗い影を落とした事も事実である。
上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。
山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。
[編集] 得意技
- 凶器(竹刀、パイプ椅子等)を使用したあらゆる反則攻撃
- コブラクロー
- クロスチョップ フィニッシュで多用
- ダブル・リストロック(逆腕固め) ヒールスタイルになってからはまったく見せていないが、前座時代の得意技。
[編集] 獲得タイトル
- NWA世界ジュニアヘビー級
- IWA世界ヘビー級
- インターナショナル・タッグ王座
- 北米タッグ王座
- WOW世界ヘビー級
[編集] 出演
[編集] 映画
- 爆裂都市 BURST CITY(1982年、東映セントラルフィルム)