ラッシャー木村
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ラッシャー木村 | |
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プロフィール | |
リングネーム | ラッシャー木村 木村政雄 |
本名 | 木村政雄 |
ニックネーム | 金網の鬼 ミスターマイク |
身長 | 185cm |
体重 | 125kg |
誕生日 | 1941年6月30日 |
出身地 | 北海道中川郡 |
スポーツ歴 | 大相撲 |
トレーナー | 豊登 ビクトル古賀 ビル・ロビンソン |
デビュー | 1965年4月2日 |
引退 | 2004年7月10日 |
ラッシャー木村(ラッシャーきむら)本名:木村政雄(きむら まさお)(1941年6月30日-)は、北海道中川郡中川町出身で宮城野部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。階級はヘビー級。血液型はB型。金網の鬼、マイクの鬼、オトウト(弟)、ミスターマイクなどのニックネームを持っていた。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 力士時代~国際プロレス
佐久中学校を経て天塩高等学校を卒業後、夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして大相撲を志し宮城野部屋に入門。「木の村」の四股名で幕下上位まで上り詰めるものの、「十両に上がったらやめられなくなるから」という理由で親方の必死の制止も振り切り脱走廃業した。
大相撲廃業後、日本プロレスに入団。東京プロレスを経て国際プロレス移籍後、日本初の金網デスマッチを行い、「金網の鬼」として一世を風靡する。ビクトル古賀からサンボ技を直伝され実は日本きっての関節技の名手なのに自分のスタイルに合わないからと試合ではサンボ技を一切使わないまま引退した粋な隠れシューターとも言われる。国際のビル・ロビンソン教室の門下生でもあり、相撲で鍛えた下地も考え合わせると実は日本で一番強かったのではないかと推測されることもある。米国遠征を経て更に実力をつけた。
ストロング小林離脱後、一度はマイティ井上に先を越されるが、1975年4月にマッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得し、国際プロレスが消滅する1981年夏まで6年間エースとして活躍した。この時期はバションを始め、ジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマタ、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパーら北米ルートで来日するラフファイターらと流血戦を展開する一方、全日本プロレスとの交流戦ではジャイアント馬場、ジャンボ鶴田らと、また新日本プロレスのマットに上がり因縁の小林とも対戦するなど、精力的に闘った。1979年10月にはAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとダブルタイトル戦を行い、反則勝ちしている。
[編集] 新日本参戦
国際プロレス消滅後は同団体のアニマル浜口、寺西勇とともに「はぐれ国際軍団」を結成。新日本プロレスにヒール軍団として押しかけ、打倒アントニオ猪木に執念を燃やし、3人対猪木1人のハンディキャップマッチで対戦したり、猪木抹殺の特訓と称して浜辺で漁船を3人で引っ張り回すなどのパフォーマンスをしたがストーリーが続かず、軍団は解散。浜口と寺西が新日本プロレスで長州力率いる維新軍団のメンバーとなった後は、木村はバッド・ニュース・アレンと共闘路線を見出したりし外人サイドとして参戦。その後は前田日明らと共に第一次UWFの創設メンバーとなるが、方向性の違いから、初期の段階で剛竜馬とともに離脱する。
[編集] 全日本移籍~ノア
その後暫くプロレス自体から離れるが、全日本プロレスの1984年の最強タッグ選手権のジャイアント馬場が自分のタッグパートナーとして木村を指名し木村も快諾。リーグ戦を共に戦うが、愛知県体育館での試合中に木村が馬場に謀反を起こしタッグチームを自然消滅させる。その後は元国際プロレスの同僚である鶴見五郎と共に全日本軍と敵対する存在となり、試合後に馬場をおちょくるマイクパフォーマンスが始まった(その名言集は後述)。しかしそんな中での「馬場、俺はお前を他人とは思えなくなったよ」というマイクパフォーマンス中の問いかけが事の発端となり、1986年の最強タッグの前シリーズで不意に木村がリング上で「今そこで馬場に会ったんだが最強タッグを組もうという話があるんだよ」という話を観客にし場内は大受けとなった。これにより馬場・木村の義兄弟タッグが誕生する。木村も以前の「馬場!」から「アニキ!」と呼ぶことで絆を深めた。その後、そのアニキ馬場の逝去後、プロレスリング・ノアの創設に参加した。
全日本プロレスからノアへと続いたマイクパフォーマンスと、故ジャイアント馬場と兄弟の契りを交わすファミリー軍団(馬場・木村・百田光雄ら)と悪役商会(永源遙・大熊元司・渕正信・マイティ井上ら)のユーモラスな戦いは、全日本プロレスのモットーである「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担当していると言ってよいほど名物となっていた。その姿はタレント・桑野信義がバラエティ番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」で物まねをするまでになった。
2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、2003年3月の日本武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。2004年7月10日、体力の限界とこれ以上関係各者に迷惑をかけられないことを理由にプロレスリング・ノアの東京ドーム大会にビデオレターでファンに自らの引退を表明した。同年12月には、ノアの終身名誉選手会長への就任が発表されている。その後、病状などは一切公表されていない。
[編集] 略歴
- 1958年 大相撲宮城野部屋入門(四股名:木の村)
- 1964年 相撲を廃業。日本プロレス入門
- 1965年 4月2日に対高崎山猿吉(魁勝二)戦(東京リキ・スポーツパレス)でプロレスデビュー
- 1966年 東京プロレスの設立に参加、日本プロレスより移籍
- 1967年 東京プロレス崩壊。国際プロレス入団
- 1969年 リングネームを本名の木村政雄からファンから公募した「ラッシャー木村」に変更
- 1970年 日本初の金網デスマッチを行い勝利(対D・デス)
- 1975年 日本初の金網デスマッチによるタイトルマッチを行い、IWA世界ヘビー級王者となる
- 1976年 全日本プロレスとの対抗戦で、ジャンボ鶴田と対戦(引き分け)
- 1981年 国際プロレス崩壊後、アニマル浜口、寺西勇とともに「はぐれ国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴りこみ
- 1984年 第一次UWF旗揚げに参加。短期間(4月~10月)で離脱、11月より全日本プロレスに参戦
- 2000年 プロレスリング・ノアの旗揚げに参加
- 2001年 還暦記念試合を行う(満60歳)
- 2004年 プロレスリング・ノア東京ドーム大会にて自らの引退を発表
[編集] 大相撲時代
[編集] 主な成績
[編集] プロレス時代
[編集] 得意技
- ラッシング・ラリアット
- ヘッドバット
- 空手チョップ
- 逆海老固め
- 回転四の字固め
- 逆足四の字固め
- 裏足四の字固め
- ブルドッキング・ヘッドロック
- クロスチョップ
- 永源遙の唾吐きのアシスト
[編集] マイク・パフォーマンス
木村の独特でゆったりとした間で繰り出すマイクパフォーマンスは、観客の受けが非常に良く、木村の試合終了後、観客から「マイク! マイク!」とマイクパフォーマンスを求めるマイク・コールは、木村が引退するまで定番となっていた。時事ネタから、観客に対しての感謝・気遣い、同僚レスラーいじり、などバリエーションは豊富であった。彼のネタにされる選手達は、木村のマイクパフォーマンスを嫌がっていたが、「観客が求めるから」と仕方なく許していたと言う。
- ジャイアント馬場(通称・兄貴)に向かって(第1声は必ず{敵対時は}「馬場っ」{義兄弟の契り以後は}「アニキーッ」と、必ず、これらいずれかで始まる)、
- 「お前、最近なんか元気だと思ったらコノヤロー。やっぱりな、お前は、ジャイアントコーン食べてるなコノヤロー」
- 「俺はな、昨晩焼肉を15人前食って戦ったけど失敗したよ。だからな今晩は20人前食って戦ってやるぞ」
- 「馬場、馬場、お前な、ハワイでな、グアバジュース飲んで鍛えたかもしらんけどコノヤロー。俺だってコノヤロー、日本で、ポカリスエット飲んで鍛えたんだコノヤロー」(毎年年末になるとハワイの別荘で過ごす馬場に対して)
- 「馬場コノヤロテメー。まあ試合は別として、昨日な、大熊(大熊元司)に言っといたんだけど、今日は俺が、馬場に、新年のな、あいさつをするからな。(間をおいてから)あけましておめでとう」(新年のあいさつを宣言して場内が盛り上がる中、生真面目すぎるシンプルなあいさつに場内は笑いの渦に巻き込まれる)
- 「今までずっと戦ってきて、お前のことが他人とは思えなくなってきたんだよ。今日からお前のこと、兄貴って呼んでもいいか?」(この時が義兄弟の契りを交わすきっかけとなる)
- 加山雄三の名曲「君といつまでも」の台詞にのせて「幸せだなぁ。俺は兄貴といるときが一番幸せなんだ。俺は死ぬまで兄貴を離さないぞ、いいだろ?」(馬場の骨折からの復帰戦において)
- 渕正信の独身ネタ。ラッシャーのマイクでネタにされて以降、渕の独身ネタは広く知られるようになり、今に至る。
- 「(当時結婚して間もない田上明を引き合いに出して)渕、田上のイキイキしたファイト見たか?おい渕、なぜか分かるか?結婚したからだよコノヤロー!お前もそろそろ、結婚しろコノヤロー!いいか?仲人がいなかったら、俺がアニキに頼んでやるからな」
- 「(秋田での試合において)渕、秋田美人はどうだ?秋田美人はいいぞ、渕!秋田美人(を嫁に)もらえよコノヤロー!」
- 「おい、今日は、最終戦だから、最後に一句読ませてくれ」
- 「おい、最近、俺のオナラが全然臭くないんだよ」
- 日本が米不足に陥った1993年限定ネタ
- だんご三兄弟と銘打った悪役商会に対し「キマラ!お前、団子食ったことあるのか?もし無いなら、今度国に帰るときに、お土産に団子を買って帰りなさい」
- 観客に呼びかけるシリーズ
- 「ブッチャー、今日は試合に負けたけど、俺には、今夜はな、ススキノが待ってんだバカヤロー!」
- ビートたけしと明石家さんまが司会を務めるテレビ番組に出演した際
- 「さんま!家が売れたらしいじゃねぇか。安心してな、ゴルフばっかりやってちゃダメだぞ!」
- 「たけし!俺も映画に出してくれ!!たまにはな、たまには、家に帰って、家庭サービスしなさい!」
- 去り際「たけし!さんま!お達者で!」
- 全日本プロレス中継に登場したウッチャンナンチャンに「ウッチャン、FOCUS見たぞ。お前なかなかやるなコノヤロー。ナンチャンもフォーカスに載るように頑張れ」
- そのユニークなキャラが買われ、土曜深夜の「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称・イカ天)(TBSテレビ)のレギュラー審査員としても登場する。(1989年~1990年)
- 天龍源一郎とのタッグ戦ではエキサイトし、観客の「マイクコール」に応えたが、セリフは「天龍! 次はシングル(で決着)だ!」と、木村の殺気で会場は静まり返った(その直後に、天龍はSWSに移籍していまい、決着戦は幻となった)。
- 引退コメント「私は体調を悪くしてリングを離れて、カムバックの為にリハビリしていましたが、思うようにいかず、これ以上やると会社やファンの皆様に非常に迷惑がかかるので、引退を決意しました。本当に長い間、ご声援有り難うございました。ごきげんよう、さようなら」
[編集] エピソード
[編集] 「こんばんは」事件
1981年9月の田園コロシアムで行われた新日本プロレスの興行にアニマル浜口、寺西勇を連れて現れた木村は、リング上でマイクを取ると、決意表明に先立ち、まずは、集まってくれた観客に対し挨拶をしなければと思い「こんばんは・・・」と丁重に挨拶を行なった。これは団体対決に付き物の殺伐とした雰囲気を好む当時のファンを拍子抜けさせ、失笑を買った。あまりにもおかしかったため、当時ビートたけしが「こんばんは、ラッシャー木村です」とネタにしたため、世間にギャグとして広まってしまった(ここからラッシャー木村のお家芸が金網からマイクパフォーマンスになる)。ビートたけしについては、当時自分の弟子を集めて結成した「たけし軍団」の一人に「ラッシャー板前」という名前をつけて、ラッシャー木村と同じ黒のロングタイツをはかせるなどしており、だいぶご執心(ファン?)だったようだ。
なお笑われた木村本人は「初めてのところに行ってきちんと挨拶するのは当然なのに、なんで笑われなくちゃいけないんだ」とおかんむりだったそうだ。
また愛犬家としても有名。新日本参戦時に、熱狂的な猪木信者と思われるものから自宅へのいたずらの被害をたびたび受けていたが、その時も、木村は自分のことよりも愛犬がストレスで円形脱毛症になったことを心配していたという。
髪型がパンチパーマだった頃は、それと合わせて体格と強面の顔が災いし、タクシーの乗車拒否は日常茶飯事だったという。
新日本プロレスでアントニオ猪木と抗争を広げた時に、猪木の波状攻撃で繰り出されるチョップを耐えて耐えて耐え抜く木村の姿から、当時ワールドプロレスリング(テレビ朝日)の実況担当の古舘伊知郎からは「テトラポットの美学」という形容を付けられていた。
梶原一騎原作の「悪役ブルース」に登場している。