二連木城
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通称 | |
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
土塁、空堀 |
位置 |
二連木城(にれんぎじょう)は、朝倉川南岸の三河国渥美郡の北の端に有った戦国時代の城(現、愛知県豊橋市仁連木町)である。「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。現在、城跡は初代豊橋市長にちなみ大口公園と言われる。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 築城まで
築城したのは明応2年(1493年)で戸田氏中興の祖戸田宗光である。
戸田宗光は、京都の室町幕府政所執事の伊勢貞親に仕えていた。三河国守護の細川成之から三河国額田郡で狼藉を働く者の鎮圧願いが出され、8代将軍足利義政は戸田宗光と義父松平信光に命を下した。宗光は義父松平信光と共に賊の首をあげ京へ送ったが、宗光は三河国で勢力を持ち始める。応仁の乱{応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)}が始まり、群雄割拠の時代が来ると、文明7年(1475年)、渥美郡老津城(豊橋市南部)に入り、文明9年(1477年)郡代一色政照を渥美郡大草村(愛知県田原市)に隠居させ、政照の養子分になることで郡の統治権を得る。文明12年(1480年)に田原城(田原市)を築城する。
明応2年(1493年)、豊川北岸の郡である宝飯郡長山一色城で、主君一色時家を討ち君臨していた波多野全慶と、同じ故一色時家家臣牧野成時(古白)は灰野原の戦いを起こしていた。宝飯郡で大混乱の年、渥美郡の北の端である朝倉川沿いの丘の上に二連木城を築城する。これによって、二連木城は田原城と共に中心拠点となり、戸田宗光は渥美郡完全制圧を図る。
[編集] 築城後
永正5年(1508年)、戸田氏中興の祖・戸田宗光は没し、子の憲光は亡父宗光のために二連木城の近くに全久院(豊橋市東郷町)を建立した。
天正18年(1590年)最後の二連木城主戸田康長(戸田松平家の祖で松平姓を受ける)は徳川家康の関八州へ移封と共に去り、二連木城は主を失った。しかし、松平姓を受け、徳川松平一族と同格となった仁連木戸田家は宗家を名乗り、田原戸田家は分家となる。
この年、この地域(当時15万2000石)へ入った池田照政(播磨国姫路城へ移封時に輝政と改名)は吉田城を拠点とし、二連木城を廃城とした。
[編集] 今橋城(吉田城)との抗争
明応2年(1493年)灰野原の戦いで勝利した牧野成時(古白)は、豊川を渡り二連木城の西1km半ほどの所に永正2年(1505年)今橋城(豊橋市今橋町)を築いた。この後、戸田氏は今橋城(後に吉田城に改名)攻略に力を注ぎ始める。二連木城にとって、当面の敵は今橋城であった。それは吉田城と改名後も同じである。今橋城は築城時、大手門を東へ向け、城を東の二連木城へ向けていた。対二連木城の砦であることは明白で有る。同じ朝倉川南岸で近くに有るが、北の朝倉川方面から二連木城を見れば明らかに小山でありこの辺りで一番高い地点であるのに対し、吉田城は豊川・朝倉川の合流地点では有るが西に対しては少々高い地点であるものの南や東に対しては完全なる平城である。タイプの異なる二つの城の、吉田城の牧野氏や今川氏と二連木城の戸田氏は対決を続けた。これに西三河の松平氏も加わり吉田城の抗争は熾烈を極めた。
今川義元が三河国支配をしていた頃、吉田城城代として大原資良(小原という文書も残る)を置いた。桶狭間の合戦で義元討ち死に後、二連木城主戸田重貞は大原資良と懇意となって油断させ、吉田城から母を脱出させて徳川家康の陣門へ入った。
池田照政(後の輝政)以降、二連木城一帯は吉田城支配下となり、二連木城の方角である東の大手門を南に移し、二連木城を廃城にし、この抗争も終結した。
ちなみに最後の吉田城主松平伊豆守信古は大河内氏であるが、長沢松平家の養子として松平氏を名乗る家である。二連木城初代城主戸田宗光の妻の父は松平信光であるが、長沢松平家は信光の十一男松平親則を祖とするという縁が有る。
[編集] アクセス
豊橋鉄道市内線東田電停(安全地帯が無く、走行する自動車に注意)下車 北へ徒歩5分 大口公園