井上正就
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井上 正就(いのうえ まさなり、天正5年(1577年) - 寛永5年8月10日(1628年9月7日))は、江戸時代の大名(譜代大名)・老中。遠江国横須賀藩主。
父は井上清秀、母は永田氏。遠江国に生まれる。通称は半九郎、後に従五位下・主計頭(かずえのかみ)を称する。正室は市川孫左衛門の娘。子に正利、娘(松平信綱室)、娘(本多忠利室)、娘(九鬼隆季室)、娘(水野忠善室)、娘(酒井重澄室)、娘(佐久間安長室)ら。
母が徳川秀忠の乳母であったため、正就も早くから秀忠に近侍した。なお、多くの書で混同されているが、大姥殿と称された秀忠の乳母は岡部氏で、正就の母とは別人である。(『寛政重修諸家譜』の岡部氏の項を参照のこと)
元和8年(1622年)、5万2千500石をもって横須賀藩主となる。このころより、老中職につく。
旗本で目付の豊島信満(正次、明重とも)は正就の嫡子河内守正利と大坂町奉行島田直時の娘とを縁組みし仲人を務めることに約定していた。しかし、春日局は正就に鳥居成次の娘と縁組みするように命じ、正就は島田との縁組みを破談した。豊島の面目は丸潰れとなり、これを恨んだ豊島は寛永5年(1628年)8月10日、西の丸で「武士に二言は無い」と叫んで脇差しで正就に斬りかかった。青木忠精が豊島を羽交い締めにして取り押さえると、豊島は脇差しを自分の腹に刺し貫いた。脇差しは羽交い締めにした青木にまで達した。正就と豊島、巻き添えを食った青木は絶命した。
井上氏はお咎め無しで正利への相続が認められた。豊島氏は酒井忠勝の配慮により嫡子継重の切腹と断絶の処分が下った。島田直時はこの事件への責任を感じ自決した。
墓所は静岡県掛川市内の本源寺にあり、これは子の正利が父のために建立したものである。
[編集] 東照宮御遺訓
人の一生は重荷で有名な御遺訓とは別に江戸時代に『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』、『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう)という禁書写本があった。これは正就が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府城の徳川家康のもとに数日間の滞在した際に家康から聞いた話を松永道斎が聞書きしたものという。ただし偽書とされている。
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