豊島信満
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豊島 信満(としま のぶみつ、天正7年(1579年)-寛永5年8月10日(1628年9月7日))は江戸時代の旗本。豊島頼重の三男。御目付1700石。官位は従五位下主膳正、刑部少輔。名は明重とも。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で平安時代以来の武蔵国の名族であるが、室町時代に太田道灌に敗れて没落した。信満の家系は豊島氏最後の当主である豊島泰経の子孫を称する下総国布川(布河)城主(茨城県利根町)で後北条氏に属していた。豊臣秀吉の小田原征伐のとき、父の頼重と兄の半右衛門尉は武蔵国忍城(城主成田氏長)籠城に加わり、頼重は討ち死にし、半右衛門尉は深手負い隠棲を余儀なくされ出家して重源と称した。
後北条氏滅亡後に布川豊島氏は所領を失ったが、文禄3年(1594年)に信満は新たな関東の領主となった徳川家康に拝謁して家臣に取り立てられ、武蔵国久良岐郡富岡庄(横浜市金沢区)を与えられた。大坂の陣に従軍。元和3年(1617年)、御目付役1700石を賜った。
老中井上正就の嫡子の正利と堺奉行嶋田直時の娘との縁談話があり、信満がこの仲介をして縁談は無事に調った。ところが、春日局が正就に鳥居成次の娘との縁談を持ちかけた。将軍家光の乳母で権勢並びなき春日局の申し出を断ることはできず正就はこれを了承し、嶋田直時とは破談になった。仲人の信満の面目は丸潰れとなる。さらに、嶋田直時の後任の堺奉行に信満が内定していたのに正就の娘婿の水野守信がこれに決まってしまった。
寛永5年(1628年)8月10日、登城した信満は西の丸廊下で正就と行き合うと、「武士に二言はない」と叫ぶや、にわかに脇差を抜き正就を斬り倒した。驚いた番士青木忠精が止めに入り背後から組みかかるが、信満は脇差を自らの腹に一気に突き刺し、刃は背中まで突き抜け青木忠精の腹まで裂いてしまった。信満、正就そして巻き添えを食った青木忠精の三人が絶命。これが江戸城での初の刃傷事件である。
信満の家はもちろん、他の豊島氏一族も連座を免れないところだったが、この時代はまだ戦国時代の遺風が色濃く残っており、老中酒井忠勝が武士の遺恨を晴らした信満の行為を称賛して寛大な処置を進言。信満の嫡子吉継が切腹となり、信満の家のみが断絶となるだけで、他の一族は連座を免れた。
信満と紀州藩主徳川頼宣とはかねて交流があり、頼宣は手紙で信満の死を悼んでいる。信満の遺児は後に紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に御家人になっている。
[編集] 参考文献
- 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年) ISBN B000J9DKGI
- 難波江進『豊島氏千年の憂鬱』(風早書林、2005年)ISBN 4990264307