井植歳男
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井植 歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。三洋電機社長・会長を歴任した井植祐郎、井植薫は弟。三洋電機前会長兼CEOの井植敏は長男。松下電器創業者の松下幸之助は姉むめのの夫。松下電器副社長・技術最高顧問の中尾哲二郎は妹やす江の夫。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 松下に入るまで
兵庫県津名郡浦村(現・淡路市)で回船業を営む井植清太郎の長男として生まれる。13歳の時、清太郎が急死し後を継いで叔父の船で船乗りになったものの、石灰岩を積んで大阪港から安治川(あじがわ)をのぼって西九条の石灰工場の下に着いた際に、乗っていた叔父の船が東京倉庫(現三菱倉庫)の爆発に巻き込まれて炎上沈没。歳男らは浦へ命からがら逃げ帰る。死者43人、負傷者300余人。大阪市の歴史に残る大惨事となる。そんな時、幸之助に嫁いでいた姉のむめのから手紙が届き、創業したばかりの松下電器製作所で働くこととなる。1917年のことである。
[編集] 松下時代
松下入社後の歳男はまず職工として働き、次いで1920年、東京への市場拡大の使命を帯び、駐在員として単身東京に向かった。しかし3年後の1923年、関東大震災に遭遇し北陸周りで大阪に一時帰ってくるが、帰って一息ついた10日後に再び東京に引き返した。途中の兵役期間を除いて1932年頃までたびたび東京に赴いたり(この間に敏が誕生している)、事業拡大への参画、またその頃病気がちだった幸之助の代理で松下を預かったりした。門真移転後の1933年には役員待遇、2年後の1935年の株式会社改組時には専務取締役となった。戦時体制の1943年には、船に精通していることもあり、海軍の要請で設立された松下造船の社長に就任し、木造船建造の指揮を執った。高松宮宣仁親王臨席のもとで行われた第1船の進水式の際、トラブルで船台から船が滑り降りなくなった原因を調べるため、寒風が吹く中冷たい海へ裸で飛び込み海中に敷いてあるレールの継ぎ目のずれを歳男が直したエピソードもある。
[編集] 三洋電機設立
1946年、松下電器に対する戦後のGHQからの公職追放令(財閥や軍需会社の幹部一人を除いて全員が追放)のあおりで松下幸之助を庇うかたちで松下電器を退社後(松下在職30年)43歳、独立して1947年、守口市に三洋電機を設立し社長に就任。幸之助からは餞として加西市にある北条工場と、自転車用発電ランプの製造権を譲られた。完成したばかりの工場を失火で焼失するなどのアクシデントを乗り越え、1949年には発電ランプの国内市場でのシェアを6割に持っていくことに成功した。また、ラジオのキャビネットを木製からプラスチックに置き換えコストダウンを図ったり、のちに「三種の神器」の一角になる洗濯機に着目し、これまた国内市場シェアのトップに持っていった。1958年には、従前は興味が余りなかった労働組合結成を許可したがこれが裏目に出て、1961年まで続く大争議に発展してしまった。争議収束後からテレビ等をアメリカに売り込み始めた。1963年には自身の音頭とりで淡路フェリーボート(須磨港~大磯港間。1998年廃止)を就航させ、次いで同じ淡路島出身の原健三郎らとともに本四架橋の実現運動を始めた(井植敏の「私の履歴書」によれば、歳男は淡路島への国際空港誘致も考えていたという)。1968年1月、社長の座をすぐ下の弟・祐郎に譲って会長に就任し、1969年7月16日に死去した。
井植がジェームス山(神戸市垂水区)の異人館を所有していた関係から、没後同地に井植記念館が建てられた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 実録・井植学校(林辰彦著、ダイヤモンド社、1985年。ISBN 4478080674)
- 名経営者の行動哲学100人百話(河合正義著、実務教育出版、1992年。ISBN 4788916134)
- 神坂次郎「天馬の歌」日本経済新聞社、1994年
- 井植敏『私の履歴書』日本経済新聞連載、2003年9月1日~30日
- 岩田緑「井植歳男・不屈の精神で大手家電メーカーへと躍進させた「最強営業マン」」『実録・創業者列伝Ⅱ』、学習研究社、2005年
[編集] 外部リンク
- 創業者井植歳男について - 三洋電機HP内の紹介ページ。