亥鼻
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亥鼻(いのはな)は千葉県千葉市中央区にある地名。千葉市中心市街地を形成する都川河口低地の左岸に、下総台地から亥の方角に突き出した舌状台地であり、地名もこの地形に由来する。現在千葉大学医学部、看護学部のキャンパスおよびこれに付属する千葉大学医学部付属病院、亥鼻公園及び千葉市立郷土博物館等の施設が存在する。JR東日本・本千葉駅の北側一帯の地域に当たり、歴史的には千葉氏の城館(一般的に亥鼻城(いのはなじょう)又は千葉城(ちばじょう)と呼称されている)があった亥鼻の舌状台地と、そこから見下ろす西側の都川河口低地一帯が千葉市本来の中心地に当たる。
[編集] 千葉氏との関わり
千葉市の都市としての歴史は、千葉常胤の父千葉常重が亥鼻の要害に舘を築いたのが始まりである。常重が築いた舘の詳細な地は不明であるが、おおよそ現在の千葉市立郷土博物館が建っている場所と相違は無いと考えられている。城館の領域は恐らく現在の千葉大学亥鼻キャンパスの範囲にまで広がっており、ここには七天王塚と呼ばれる7つの塚が現存する。亥鼻の千葉氏城館の鬼門の方角に妙見信仰の信仰対象である北斗七星を祭ったものと考えられているが、地元では古くから平将門の7人の影武者の首塚との伝承が根強く、祟りがあるものとして恐れられてきた。
常重の時代までは千葉氏は周囲の土豪の圧迫により千葉郡周辺の本所を守ることに汲々としていたが、その後常胤の時代に源頼朝の呼応に従い、又上総氏等の周辺の土豪が消滅したことから、千葉氏は亥鼻を本拠に下総国、上総国の支配権を確立した。
その後、1455年に千葉氏が本拠地を佐倉に移すまで千葉氏の本拠地として亥鼻の舘が用いられた。
[編集] 亥鼻(千葉)城について
現在、千葉氏が舘を築いていたと思われる場所には、千葉市立郷土博物館が建っている。この建物は近世風の城郭を模したものとなっていて、外房線や京成千原線の車内からも見ることができる。
しかし、千葉氏が亥鼻に築いた舘は中世風の館形式の城郭であると考えられ、高層の楼閣である天守閣が築かれるようになったのはより後の時代であって、現在の千葉市立郷土博物館が昔日の姿を反映していると考えることは誤りであると指摘されている。