京阪100年号事故
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京阪100年号事故(けいはん100ねんごうじこ)は、1976年(昭和51年)9月4日に発生した日本国有鉄道(国鉄)の動態保存蒸気機関車牽引によるイベント列車で起きた鉄道人身障害事故である。軌道敷内へ侵入した小学生1人が列車にはねられて死亡したもので、鉄道事業者側に責任のある「有責事故」でもなかったが、その後の蒸気機関車保存運転のあり方に大きな影響を与えた。
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[編集] 事故の概要
1976年9月4日、東海道本線の京都駅~大阪駅間開業100周年を記念して、梅小路蒸気機関車館に動態保存されていたC57形蒸気機関車1号機(客車は12系を使用)による記念臨時列車「京阪100年号」が京都駅~大阪駅間で運転された。京都を出発して大阪で折り返す運用で、下りが午前中、上りは午後に運行されるダイヤとなっていた。この列車の運行については数日前から在阪のマスコミで広く伝えられ、列車の通過予定時刻などを詳細に報じたメディアもあったとされる。
当日は午前中から多くの鉄道ファンや観衆が駅や沿線に繰り出し、マスコミもヘリコプターで列車を追ったりしていた。沿線では多くのファンが見物や撮影のために待機しており、線路内に侵入してまで撮影を行っていたファンもいた。往路は桂川橋梁で幼児の線路侵入による急停車はあったが無事に大阪に到着し、復路の上り列車の運行へと進んだ。
この日は土曜日で、学校の授業の終わった児童生徒も午後には駅や沿線に姿を見せ[1]、観衆の数は一段と膨らんだ。この多い観衆などのため、定刻よりも遅れて走行中だった千里丘駅~茨木駅間で、事故は発生した。当時、現場は専売公社への引込み線があった。[2]引込み線上で待機していた大勢の観衆が列車の接近にあわせて本線に侵入、線路内に入って撮影しては脱出する極めて危険な状態であった。その中、列車直前に飛び出し逃げ遅れた小学5年生の男児(10歳)が機関車と接触、跳ね飛ばされ現場にて失神、病院搬送後に死亡した。列車は高槻駅まで蒸気機関車牽引で走行し、同駅でEF65形電気機関車に付け替え、京都駅まで運行された。高槻駅で切り離された蒸気機関車は、同日夜に梅小路へと回送された。
事故後、男児の父親は国鉄に対し現場の安全管理に問題があったとして訴訟を起こしている。「ロープぐらい張っておくべき」との父親の主張はマスコミでも取り上げられた。JRになってからも裁判は続いていたが、その後、マスコミ報道でも取り上げられなくなった。
当日の現場は十分な雑踏整理がなされていなかった。本来立ち入りできないはずの犬走りにも人があふれ、男児がはねられた現場では専用線との線間まで一般観衆が多数入っていた。100年号は事故現場の茨木駅構内進入時、既に大幅な遅れを出していた。遅れの原因は走っている列車の直前に飛び出し、真正面から機関車を撮影する観衆が後を絶たず、徐行、急停車の連続だったからである。また、100年号を運転していた機関士に対し警察から執拗な追及があった(下記参考文献記事による)模様である。
[編集] 背景および事故の影響
前年の1975年12月で国鉄は蒸気機関車による営業運転を終了し、この年の3月に北海道で入換用に残っていた蒸気機関車が退役してからは、梅小路蒸気機関車館の動態保存機だけが国鉄の保有する現役蒸気機関車となっていた。
梅小路蒸気機関車館の開館当時の構想では、線路が本線につながっている利点を生かし、機関車館を拠点とした保存機による列車を定期的に運行することになっていた。開館当初、C62形による「SL白鷺号」などが運行されたが、その後は国鉄の労使問題の深刻化などを受けて一時中断状態になっていた。
上に記したような営業用蒸気機関車の全廃を迎え、保存運行を再開すべく実施されたのが、この「京阪100年号」であった。この運行に先立って、3月には山陰本線の丹波口駅付近の高架化完成に際してC11形を使用した記念列車が運行されており、それに続くものであった。山陰本線の時は平日の午前中で走行距離も短く、この「京阪100年号」こそが本格的な保存運行の試金石になると目されていた。
しかし、人身事故が起きたことで構想は事実上頓挫する。イベント列車で死者が出たことの衝撃は大きく、鉄道趣味雑誌『鉄道ジャーナル』はこの事故に関する特集記事を組み、記念列車を煽った一般マスコミの責任に言及しながら「本誌は日本の社会が大人の対応を取れるまで、蒸気機関車動態保存についての提言を行わないことにする」と宣言したほどであった。
国鉄では1972年10月に汐留駅~東横浜駅(桜木町駅付近)間で運行された「鉄道100年記念号」での混乱も踏まえて、大都市圏での蒸気機関車の保存運行を断念し、地方路線での恒久的な保存運行へと方針を転じていくこととなった。その結果1979年に実現したのが、今日に続く山口線での「やまぐち号」保存運行である。
京阪100号の直後、山崎駅~神足駅(現在の長岡京駅)で中学1年生が、続いて神足駅構内で小学6年生が撮影中に線路に侵入し、新快速電車にはねられ死亡している。いずれもブルートレイン撮影目的での線路侵入であった。往時のブルートレイン・ブームは駅・沿線問わず、また深夜にも子供たちが寝台特急に群がり社会問題化した。同時期の自動車の「スーパーカー・ブーム」にも通じるものがあった。
なお、その後における大都市圏の本線上での蒸気機関車の運転は、1980年6月に横浜の高島貨物線の東横浜~山下埠頭で、梅小路蒸気機関車館所属のC58形1号機を借りて「横浜開港120周年記念号」を運行したほか、1988年にオリエント急行の車両が日本で運行された際にはD51形498号機が牽引、上野→大宮間を走行した。近年では、2003年12月に同機の牽引で上野駅~尾久客車区(現在は尾久車両センター)間にイベント列車が運行された実績がある(あゝ上野駅号)。また、これは大都市圏からは離れているが、2007年2月にも同機を使用した「SLちばDC号」及び「SL南房総号」が、千葉県の内房線で運行されている。この列車が運転された時も、鉄道ファンや観衆がSLを見ようと沿線に繰り出し、線路内立ち入りなどによって緊急停車が相次いでいた。幸い、「京阪100年号」のような大事故には至ってはいなかった。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1976年12月号 No.118
[編集] 関連項目
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