国鉄12系客車
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国鉄12系客車(こくてつ12けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が1969年(昭和44年)から1978年(昭和53年)まで、合計603両を製造した急行形座席客車のグループである。
当初から冷房装置を搭載し、また自動ドアの客車初採用などの改良で、旅客サービスや安全面の向上に大きな成果を挙げた。このほか、客車初の分散ユニット型電源システムによる電源供給の効率化が図られ、2段式ユニット窓やFRP部材の採用などでコストダウンをも図るなど、多くの技術面でその後の国鉄客車の基本となった車両である。
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[編集] 開発の経緯
当初は、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)輸送を念頭に臨時列車・団体列車を含めた波動輸送用車両として製作された。
既に電車・気動車が旅客輸送の主力となっていた時期であるが、あえて客車として製作された。その理由は以下の通りである。
- 臨時列車・団体列車等は多客期のみの運行であり、閑散期には車両を車庫で遊ばせておかざるを得ない。このような用途向けに、動力装置を持つ電車・気動車を増備することは製造・保守のコストがかかる。
- 当時、戦前に製作された客車が多数在籍していたが、その老朽化による車両自体の取り替え需要が生じてきた。一般型の座席客車は、10系客車のナハ11形・ナハフ11形が1959年に製造終了して以来、増備されていなかった。
- 1960年代中期以降、急行用電車・気動車においては普通車の冷房化が始まっており、客車についても時流に応じる必要があった。
- 10系客車までの在来型客車は、電気機関車やディーゼル機関車を牽引に用いる場合、暖房を使用する時期には牽引機関車が限定される問題があった。暖房用蒸気を供給するボイラー(蒸気発生装置)付旅客用機関車で牽引するか、別にボイラーを搭載した暖房車を連結する必要があり、電気暖房の場合は、電源供給設備のある機関車が必要だった。
[編集] 概要
本系列は冷暖房手段を機関車に依存せず、分散式のユニットクーラーと、電気暖房装置を全車両に設置し、電源としてディーゼル発電機を緩急車スハフ12形の床下に設置した。暖房用ボイラーや電源供給装置を持たない貨物用機関車でも、常時牽引できるようになったので、貨物列車の運行が少ない時期に、機関車の有効活用が可能になった。ただし、照明や放送装置などのサービス電源は旧型客車同様に車軸発電機からの電源で賄っている。
車体は在来客車の流儀を脱却し、急行形電車の設計を基本的に踏襲して車体幅を約10cm拡大、2.9m級となった。また車体長も20.8mに拡大して座席間隔を1,580mmに広げ、腰掛自体も人間工学を考慮した形状改良を行っている。
その他の改良点は以下のとおりである。
- 全車に空気バネ台車を標準装備(新開発のTR217系台車)。乗心地を改善した。
- 新開発のCL形自動ブレーキ装置の採用=ブレーキシュー材質は従来の鋳鉄に代わり、高速域からの安定した制動力が得られるレジン樹脂に変更。併せて自動ブレーキ機構は、従来の三動弁をやめ、よりメンテナンスフリーで作動迅速な三膜弁に変更。通常の自動ブレーキ配管・空気圧で、従来より15kmプラスの最高速度110km/h運転可能となった(20系は既に110km/h運転可能だったが、機関車が増圧ブレーキ仕様である必要があった)。
- 国鉄客車としては初めて自動ドアを採用。電車・気動車並みの安全性を確保した。
- 2段式のユニット窓を初めとする合理化された構造を随所に取入れた。同時期の電車や気動車にならったもので、生産性や整備性を改善している。
- 塗色は車体全体を20系より明るい青20号に、クリーム10号の2本帯とした(屋根は灰色1号だがのちにねずみ色1号に変更)。
- 旧型客車と混結して運用することを想定し、蒸気暖房の引通し管および電気暖房の引通し線を両方装備している。このため、機関車と旧型客車の間に本系列が連結された場合でも、旧型客車への暖房供給が可能となっている。
これらの要素は、それ以前の旧型客車や10系、20系とは一線を画すもので、12系以後に登場した特急用の14系・24系客車にも多くが踏襲されている。
[編集] 形式
12系客車の新造形式は、スハフ12形・オハフ13形・オハ12形の3形式のみではあるが、製造時期によって仕様は異なる。更に国鉄末期には大量に発生した余剰車をベースに、普通列車仕様化やジョイフルトレインへの改造、また民営化以降はアコモデーション改善改造等が行われ、形式・番台区分が一層細分化されている。
[編集] 新製車
臨時列車の使用を考慮しておりグリーン車は設定せず、普通車のみとしている。そのため形式は電源装置付き緩急車のスハフ12形、編成中間に連結するオハ12形、電源装置なし緩急車のオハフ13形のみである。
製造時期によって仕様が異なり、細かく分別すると実に9次車まで存在する。大まかに分別すると以下の4つのグループに分けられる。
試作車では、ディーゼル発電機による電源供給量は客車5両分の150kVAであった。しかし、当時の国鉄では6両編成ないし12両編成を1単位とする運用が多く、編成組成の際にはスハフ12形が過剰に必要となり不経済であった。このため量産車の電源容量は6両分の180kVAに引き上げられ、更に100番台以降は210kVAにまで引上げられた。あわせて燃料タンクの容量も、長距離運用に対応させるため、860ℓから1500ℓに増強するなどの措置が行われている。
[編集] 試作車
1969年に製造された最初のグループである。新潟鐵工所および富士重工業でスハフ12形8両とオハ12形20両が製造された。その後に量産された車両とは電源機関などが異なっていたが、1972年に全車が高砂工場で量産車と同一仕様に改造された。
- スハフ12 1~8
- 1969年に8両製造された試作車。電源装置はDMF15H-GディーゼルエンジンとDM82発電機を組み合わせた出力150kVAのもので、自車を含め5両に給電可能であったが、量産化改造により180kVA、6両給電となった。
- オハ12 1~20
- 1969年に20両が製造された試作車。
[編集] 量産グループI
1970年に製造されたグループである。途中駅での分割併合を考慮して編成端だけでなく中間にも緩急車を組み込む方針となったため、新形式として電源機関なしの緩急車であるオハフ13形が登場した。スハフ12形の電源機関は自車を含む6両給電可能なものとなった。また試作車では側面行先表示器が28コマ表示であったが、量産車では70コマ表示に改良された。製造は新潟・富士のほかに日本車輌製造も加わっている。
- スハフ12 9~64
- 1970年に56両が製造された。電源装置のエンジンをDMF15HS-Gに変更し、容量は150kVAから180kVAに上げられ、燃料タンクを860ℓ→1500ℓに増量した。
- オハフ13 1~50
- 1970年に50両が製造された。
- オハ12 21~214
- 1970年に194両が製造された。
[編集] 量産グループII
1971年に製造されたグループである。台車および暖房回路、便所・洗面所のユニットが改良されるとともに、屋根の塗色をねずみ色1号に変更した。メーカーは引き続き新潟鐵工所、富士重工業、日本車輌製造の3社である。
- スハフ12 65~90
- 1971年に26両が製造された。台車をTR217C形に変更している。
- オハフ13 51~76
- 1971年に26両製造された。台車をTR217B形に変更している。
- オハ12 215~312
- 1971年に98両が製造された。台車をTR217B形に変更している。
[編集] 量産グループIII
12系の製造は1971年以降打ち切られていたが、6年後の1977年に再開され、翌1978年まで製造された。スハフ12形は新区分番台の100番台となっている。
- スハフ12 101~163
- 1977年~1978年に63両が製造された。電源機関をDMF15HZ-G形に、発電機をDM93形に変更。これにより210kVAへ増強。また冷房装置をAU13AN形に、空気圧縮機をC400A形に、台車をTR217D形に変更。新たに前位妻側に尾灯、冷水器を設置。また、1972年に発生した北陸トンネル火災事故の教訓から火災対策が強化されており、床を合板床からアルミに、車内の布製品を難燃性の物に変更している。更に149~163は、後位側幌と緩急室窓を当時量産が開始された50系と共通化し、幌は収納式から外吊の普通型へ、緩急室後方監視窓は縦長にそれぞれ変更された。
- オハ12 313~374
- 1977年~1978年に62両製造された。冷房装置をAU13AN形に、台車をTR217C形に変更。
[編集] 改造車
[編集] 1000番台
非冷房で手動ドアであるなど、安全性や接客設備の面で陳腐化した旧型客車の置換え用として1984年~1986年に鷹取工場、松任工場、幡生・広島・後藤の各車両所で計47両が改造された。比較的初期の車両を中心に改造されている。
山陰地区や播但線、七尾線等で使用され、国鉄の分割・民営化後は全車が西日本旅客鉄道(JR西日本)に承継された。基本的なシステムはオリジナル車と同様であるが普通列車運用のため、同時期に行われた交直流急行形電車の近郊形改造同様に車内車端部の2ボックスをロングシート化し、吊手を設けた。また塗色も白帯がなくなり青一色となったが、塗色更新ではなく、元々あった白帯を同色の青で塗り重ねたものもあった。七尾線用の車両は行先表示器を撤去して、側面中央部窓下にサボ受を設置した。一般車との混結も見られたが、最終的には投入線区の気動車列車化で全廃され、区分消滅した。
元々が急行・団体臨時用車両で、車端部デッキの狭い自動折戸から乗降せねばならず、ことにラッシュ時には乗降に円滑を欠くきらいはあった。しかし在来車が非冷房車ばかりであった地方線区では、乗り心地の良い冷房車として乗客の好評を得た。
- スハフ12 1001~1012
- スハフ12形の1000番台化改造車。12両が改造された。種車(改造元車両)は順にスハフ12 26・27・90・24・46・21・37・23・72・73・30・65である。便所は使用停止のうえ閉鎖し、洗面台と冷水器を撤去した。定員は22名増の112名。
- オハフ13 1001~1012
- オハフ13形の1000番台化改造車。12両が改造された。種車は順にオハフ13 22・23・1・42・34・8・10・17・52・2・11・12。スハフ12形と同様、便所は使用停止のうえ閉鎖し、洗面台と冷水器を撤去した。同じく定員は22名増の112名。
- オハ12 1001~1023
- オハ12形の1000番台化改造車。23両が改造された。種車は順にオハ12 87~91・74・96・97・49・72・73・143・146・189~191・203・163・164・193・194・206・210。便所と洗面所は残された。定員は22名増の120名。
[編集] 2000番台
1000番台同様、旧型客車置換え用として、1985年に盛岡、土崎工場で計37両が改造された。主に一ノ関以北の東北本線や奥羽本線で使用された。民営化後は全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。車内接客設備の改造内容は1000番台と同じであるが、電源システムは従来の方式に代わり、電気機関車の電気暖房用主変圧器3次巻線から交流1500Vの給電を受ける方式としている。そのため電源車のスハフ12形は存在せず、オハフ13形、オハ12形の2形式のみである。塗色は1000番台同様、白帯を消し青一色とした。1994年12月ダイヤ改正にて50系客車に置き換えられ運用離脱。
- オハフ13 2001~2021
- オハフ13形の2000番台化改造車。21両が改造された。種車は順にオハフ13 66・18・40・14・57・48・55・49・38・60・37・58・46・32・53・4・5・24・67・3・45。機関車から給電を受けるため、高圧ヒューズ箱、変圧器、補助電源装置、MRコックを設置し車軸発電機を撤去した。1000番台と同様、便所は使用停止のうえ閉鎖し、洗面台と冷水器を撤去した。同じく定員は22名増の112名。
- オハ12 2001~2016
- オハ12形の2000番台化改造車。16両が改造された。種車は順にオハ12 171・241・184・172・174・242・239・240・248・173・272・274・249・179・273・275。便所と洗面所は残された。定員は22名増の120名。
[編集] 3000番台
1991年、JR西日本が急行「だいせん」「ちくま」用として鷹取、後藤工場で計18両を改造したもの。改造内容としては、座席を485系電車発生品の簡易リクライニングシートに取替え、化粧板・便所・洗面所のリニューアルを行った。14系寝台車と混結するため、車軸発電機を撤去し、14系と同様の三相交流変圧器を設置している。このため、未改造の12系とは併結できなくなった。「だいせん」の気動車化や「ちくま」の電車化に伴い2003年に全廃された。
- スハフ12 3001~3006
- 6両を改造。種車は順にスハフ12 40・87・79・??・81・76。14系同様、車掌室側妻の貫通路開戸に列車愛称名表示器を設置。リクライニングシートへの変更により定員は16名減の64名。
- オハ12 3001~3012
- 12両を改造。種車は順にオハ12 303・310・297・306・305・307・296・271・298・299・208・??。同じくリクライニングシートへの変更により定員は16名減の72名。
[編集] 1000番台(JR九州)
1993年、久大本線の普通列車に使用していたオハ12 288・289の2両に車掌室設置工事を施したもの。便所・洗面所を撤去してその場所に車掌室を設置し、車掌室側面と妻面に窓を設けた。番号は原番号に1000を足した1288・1289に変更されたが、形式はオハ12のまま変更されなかった。1999年に同線の客車列車が廃止となったため2両とも廃車となっている。
[編集] スハフ13形
[編集] スロフ12形・オロ12形0番台
[編集] オヤ12形
2002(平成14)年、JR東日本土崎工場(現・秋田総合車両センター)でスハフ12形を種車として1両が改造され、同時にオヤ12 1と改番された。同社の高崎車両センターに所属するD51形蒸気機関車498号機や新津運輸区に所属するC57形蒸気機関車180号機を、イベント運転や点検による車両基地への入出場などで目的地まで回送する際の同機の状態の把握や保安機器の搭載などを目的としている。外観に変化はないが、車内は一部座席を撤去し保安機器などを搭載するスペースとしたほか、蒸気機関車の状態を把握するための装置が追加されている。現在はD51形とともに高崎車両センターに在籍。
[編集] 他系列への改造車
[編集] オハ25形・スハ25形
[編集] キサハ34形
氷見線の気動車列車増結用として、1992年にJR西日本松任工場(現・金沢総合車両所)にて4両が当系列から改造により誕生した。オハ12形1000番台改造の0番台とスハフ12形1000番台改造の500番台の2タイプが存在した。改造元はオハ12 1019・1021→キサハ34 1・2、スハフ12 1001・1003→キサハ34 501・502である。
改造内容は、便所の撤去の他、連結器を気動車用の小型タイプへ交換し、連結幌、引通し線の交換、氷見線色(白地に黄色・青色)への塗色変更など最小限にとどまっている。500番台車は種車の電源エンジンもそのまま残され、自車および併結気動車への冷房電源用に使用されていた。両番台は必ず2両一組で運用され、両車間の貫通幌は客車時代のままであった。
動力を持たない付随車であることから、もっぱらキハ58形・キハ28形2両の間に挟まれた形で、朝ラッシュ時に運用されていたが、キハ58系の老朽化が進んでいたことや、運用線区の利用者が減少し、増結の必要がなくなったことなどから、登場からわずか4年後の1996年に全車廃車された。
[編集] キサロ59形
1989年、JR西日本ジョイフルトレイン「セイシェル」の中間車として改造された。種車はスハフ12 701で、キサロ59 501を名乗った。当車は前後をキロ59形に挟まれて走行した。電源用エンジンは存置され、編成全体にサービス電源を供給している。大型のリクライニングシートを備え、サロンやカウンターもあった。ジョイフルトレインの利用低迷と老朽化により運用の場を失い、2005年に廃車となった。
なお、スハフ12 701は元をたどれば1985年に福知山鉄道管理局がスハフ12 5からイベント客車「いこい」として改造した車両である(静岡鉄道管理局に1981年に登場の同名の和式列車が存在したが、両者に関係はない)。半室が洋風、もう半室が和風で、ミニキッチンまで備えているが普通車扱であった。イベント客車であるが、定期の客車列車に併結されたり、キハ58系に併結されたりして使用された。
[編集] ジョイフルトレインへの改造
国鉄時代末期より、本系列を改造して和式列車などのジョイフルトレインが多数製作された。
- 和式列車
- JR西日本 旅路
- 欧風列車
- JR西日本 SLやまぐち号専用レトロ客車
[編集] 改番をともなわない改造車
- 「サイエンストレイン」への改造
- 1985年に茨城県筑波郡谷田部町(当時)で開催された国際科学技術博覧会(通称「科学万博」)のPR列車「サイエンストレイン エキスポ号」に使用する目的で竜華客貨車区所属のスハフ12 6・16、オハ12 5・7・8・9・11の7両が改造された。改造内容としては車内の腰掛、荷棚などの設備品をすべて撤去して側窓をふさぎ、科学万博の宣伝パネルや展示物を設置した。
- 改造は土崎工場で実施され、科学万博開催前の1984年9月に落成し、同月14日の東京駅を皮切りに全国各地を巡回した。1985年5月に巡回を終了し、土崎工場で復元された。
- 簡易和式列車「ふれあい」への改造
- 1985年に長野運転所所属のスハフ12 7・64、オハ12 121・149・284・285の6両を改造したもの。各座席の座布団を取り外し、代わりに畳をはめ込んで簡易和式車両とした。塗装は変更されていない。
- 国鉄分割民営化後、JR東日本に承継された。1995年に廃車となっている。
[編集] 沿革
製造当初より、波動輸送用車両及び臨時夜行急行列車に使用されたが、14系座席客車が製造されるまで、一時的に臨時特急「しおじ」「つばさ」などにも使用されたこともある。しかし、特急運用の際には設備が急行並のため、特急料金が割引かれた。
登場以来、団体列車や臨時列車を中心に使用されてきた12系客車が、定期列車に使用されるようになったのは1973年からで、急行「きたぐに」「音戸」に使用され、その後拡大していった。
その後、夜行列車の本数減少や、1970年代後半から始まった旧型客車の廃車に伴い、50系客車と共に普通列車運用に比重を移した。その為、一部の車両は車端部座席のロングシート化などを行なった。また1980年代には、多数が和式列車などのジョイフルトレインの改造ベースとなった。
国鉄民営化後は夜行急行列車がほとんど消滅し、普通列車についても電車・気動車化が進行したため、大量の余剰廃車が発生し、21世紀初頭の現在では大部分が廃車になっている。また一部のオハ12形は24系25形客車に改造編入され、特異な例では気動車用の付随車に改造されて気動車編成に組込まれた珍車もあった。
[編集] 現況
1987年の国鉄分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)を除く旅客会社各社に601両が引継がれたが、九州旅客鉄道(JR九州)においては既に全廃され、2004年現在、JR各社には75両が在籍する。またわたらせ渓谷鐵道・樽見鉄道に譲渡車が少数在籍している。いずれも臨時列車・団体列車に用いられる。また1997年にはJR西日本保有車両の一部をタイ国鉄に譲渡、1999年と2001年にJR東日本が、2003年にはJR九州がフィリピン国鉄に譲渡した。日本の私鉄における最大・最強の電気機関車である西武鉄道E851形のさよなら運転では、JR東日本から12系客車が特に借入れられて牽引された。
現在、国鉄時代の塗装を纏っている車両は、JR東日本高崎車両センターとJR西日本京都総合運転所にそれぞれ6両編成1本ずつ、JR東日本高崎車両センターに蒸気機関車を回送する際の控車としてのオヤ12 1、JR西日本山口鉄道部車両管理室に予備電源車などとしてのスハフ12 36の計14両が在籍しており、蒸気機関車の牽引によるイベント列車などで使用されている。また1999年より磐越西線の新津~会津若松間で4月~11月の土日・祝祭日に運行されている快速「SLばんえつ物語」号にも運用されるようになった。専用化改造された6両に、2000年末新たに展望車であるオハ12-1701が組込まれ7連化されている。2007年に再びリニューアル改造を施して運用に就く予定である。また、「SLやまぐち」号の客車にも改装した12系が使用されている他、秩父鉄道にも「SLパレオエクスプレス」号として、塗装を専用化して使用されている。
[編集] 外部リンク
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)・JRの客車 |
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木造ボギー客車 |
9500系・12000系・22000系・28400系 |
鋼製一般形客車 |
オハ31系・スハ32系・オハ35系・70系・マロネ40形・60系・スハ43系・10系・50系 |
新系列客車 |
20系・12系・14系・24系・E26系 |
その他 |
マニ30形・ナハ29000形・ハテ8000形・オハフ17形 |
事業用車/試験車 |
オヤ31形・マヤ34形・マヤ50形 |
車種別 |
皇室用・一等寝台車・二等寝台車・三等寝台車・一等車・特別二等車・二等車・三等車・展望車・病客車 A寝台車・B寝台車・グリーン車・普通車・食堂車・郵便車・荷物車 |