伊達郡
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伊達郡(だてぐん)は、福島県の郡。人口118,275人、面積494.94 km²(2003年)。
以下の4町を含む。
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[編集] 歴史
[編集] 縁起
律令制で道国郡制が整備されたとき、当初は現在の福島市とほぼ同じ地域と伊達郡・伊達市の地域を合わせて信夫(しのぶ)郡だった(古代には信夫は忍とも表記された)。しかし、8世紀前半に信夫郡の西部がそのまま信夫郡、東部と北部が伊達郡として、2郡に分けられた。
伊達はもともと因達とも表記し、「いだち」または「いだて」と呼んだ。一説によると播磨国の射楯神社(射楯兵主神社?)を信仰する人々が現在の伊達市西部のあたりに移住して因達神社(伊達神社)を奉じ、伊達郡の名前の由来になったという。
[編集] 地勢
本来の伊達郡域は、福島盆地という比較的肥沃な土地も多く、伊達郡と伊達市の…とくに北部の平野部は古代から比較的活発な経済活動が行われた。中世には伊達氏の本拠地として、江戸時代には阿武隈川の舟運で栄えている。また北部の半田山には日本三大銀山に数えられる半田銀山があり、幕府の直轄として代官所が置かれた。一方で奥州街道から羽州街道が分岐する追分けの宿場町も栄えた。現在、奥州街道に相当する国道4号線と、羽州街道に相当する国道13号線は福島市で分岐しており、東北本線と奥羽本線、あるいは東北新幹線と山形新幹線も同様のルートを通っている。しかし、当時は桑折が追分けとなり、現在の国見町をとおって宮城県白石市、七ヶ宿町を経て出羽国(山形県・秋田県)に続いていた。
[編集] 安土桃山時代まで
平安時代末期には奥州藤原氏の勢力圏となり、藤原氏下の信夫佐藤氏等の有力領主がいた。
源頼朝による奥州藤原氏征伐のときは、伊達郡国見町の厚樫山(あつかしやま:当時は国見山とも)を中心にには藤原氏の防衛線が張られ、事実上の決戦場となった。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後は、伊達郡は関東武士の伊達氏に与えられ、以後、豊臣時代に伊達政宗が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、伊達氏支配となる。伊達氏は伊達郡という郡名から伊達氏を称するようになったという。なお、明治維新まで、伊達氏の公式な読みは「いだて」であった。江戸時代に、「いだて」または「いだち」から「だて」へと読みが変遷したと思われる。
[編集] 江戸時代
江戸時代初期、信夫郡と伊達郡が米沢藩上杉氏の所領だった時代、現在の福島市北部の摺上川(すりかみがわ)から、伊達郡の桑折(こおり)町、国見町、伊達市梁川町に達する長大な用水路「西根堰(にしねぜき)」が建設された。岩盤を打ち抜いていくつもの隧道(トンネル)を作った大工事であった。これによって伊達郡北部の西根郷(阿武隈川西岸地域:逆に阿武隈川と右岸を東根郷と呼ぶ)の耕地は飛躍的に増大した。第1期工事で西根堰下堰(したぜき)が作られ、桑折町伊達崎(だんざき)まで13kmの水路が阿武隈川に合流する。第2期工事が特に難工事だった上堰(うえぜき)で、伊達市梁川町五十沢(いさざわ)までの29kmの水路である。この工事を差配した米沢藩奉行古河善兵衛と郡役佐藤新右ヱ門は、現在、堰関係者が明治19年に建立した西根神社に神としてまつられている。その後、上杉綱憲(吉良義央の子)家督相続時(1664年)に伊達郡は江戸幕府に召し上げられて天領地となる。この頃、幕府は国内での生糸の自給と質の向上進めて幕府による生糸生産の独占を図ろうと計画し、蚕の育成に適した伊達郡一帯に養蚕業を奨励した。このため、同郡は全国屈指の養蚕地帯となった。安永元年(1772年)、幕府は伊達郡・信夫郡の17村に日本蚕種本場の称号を与えている。
豊臣政権時代に上杉景勝支配となってから、本田氏福島藩の時代まで、伊達郡と信夫郡は一括支配であったが、その後、信夫郡には堀田氏、板倉氏福島藩が存続することになり、伊達郡は大部分が天領(幕府直轄地)となりつつも、しばしば小藩が作られた。
- 豊臣政権時代から約70年間の上杉藩支配。
- 元和4年(1618年)、西根下堰着工。
- 寛永2年(1625年)、西根上堰完成。費用は5万7千両。
- 万治3年(1659年)、上杉家による信達検地。
- 寛文4年(1664年)、上杉家の跡目騒動により、上杉藩は30万石から15万石に減封。伊達郡と信夫郡は天領となる。
- 寛文11年(1671年)、信達検地。
- 延宝7年(1679年)、信夫郡とともに福島藩(本多氏1代)となる。
- 天和2年(1682年)、本多氏が播磨姫路藩に転封となったことにより、伊達郡は天領となる。以降、伊達郡の大部分は、明治維新まで天領となった。桑折、下手渡(しもてど)、梁川に関しては以下に詳説。
- 寛延2年(1749年)、大凶作で信達両郡幕領惣百姓一揆・訴願。いわゆる天狗騒動。
- 宝暦5年(1755年)、大凶作、水害。
- 明和年間(1764年~1769年ごろ)、福島の回漕業者である渡辺十郎右衛門が、阿武隈川の改修。舟運が開ける。
- 安永1年(1772年)、大凶作。
- 天明3年(1783年)、春の長雨、夏に浅間山噴火により大凶作。天明の大飢饉が始まる。
- 天明4年(1784年)、飢饉により餓死者相次ぐ。
- 寛政8年(1796年)、凶作。米がとれずに米価高騰。
- 寛政10年(1798年)、米価高騰で百姓騒動。
- 文政8年(1825年)、大凶作。
- 天保4年(1833年)、大凶作。天保の大飢饉始まる。
- 天保6年(1835年)、凶作。
- 天保7年(1836年)、大凶作。餓死者相次ぐ。
- 嘉永4年(1851年)、信夫郡・伊達郡で、信達二郡百姓一揆。
- 嘉永5年(1853年)、掛田に救惣連(小作人の互助組織)ができる。日本初の農協ともいわれる。
- 慶応2年(1866年)、信夫郡伊達郡180村で5万人が参加する大規模世直し一揆(信達騒動打ち壊し)が起きる。
- 桑折藩
- 下手渡藩
- 文化3年(1806年)~慶応4年(1868年)の約62年間、現在の伊達市月舘町下手渡に下手渡(しもてど)藩(立花氏3代)がおかれた。
- 梁川藩
梁川は藩となったり、他藩の飛び地(預かり地)となったり、天領となったり、変遷が激しい。鎌倉・室町時代から栄えた仙台藩伊達氏の出身地としての知名度(ブランド)から、しばしば大名の領地替えの代替地、一時預かり地として利用されたものと推察できる。
なお、松平氏梁川藩の最後の藩主は、8代将軍徳川吉宗と対立したことで有名な尾張藩の徳川宗春である。梁川藩主時代は松平通春(みちはる)。梁川藩主が尾張徳川家を相続したため、一度梁川藩は廃藩となった。
[編集] 明治以降
福島盆地は幕末以後の養蚕景気のために明治期には100以上の銀行が乱立した。(梁川町、伊達市参照)
明治12年に伊達郡役所は現在の伊達市保原町におかれたが、桑折(こおり)で誘致運動があり、明治16年に現在の伊達郡桑折町に移された。現在、桑折町では当時の和洋折衷建築の郡役所の建物が旧伊達郡役所として 維持、公開され、国の重要文化財になっている。
第二次世界大戦後の町村合併の流れで、信夫郡の全域と伊達郡と安達郡の一部は、現在福島市となっている。現在信夫郡はない。残る伊達郡9町のうち5町は2006年1月1日に合併して伊達市となった。なお、福島市(旧信夫郡)東部と伊達郡の西部の平野部を福島盆地または信達(しんたつ)平野と呼ぶ。また、福島盆地の中央部(福島市東部)には信夫山(しのぶやま)があり、市民に親しまれている。伊達郡・伊達市と福島市(信夫郡)は古くから同じ文化圏、経済圏、生活圏として不可分な状態にあり、現在もその状況はかわらない。伊達郡内の多くの町民が福島市や伊達市に通勤または通学している。
[編集] 明治以降の沿革
- 明治22年4月1日 町村制施行(4町36村)
- 明治26年
- 2月3日 立木村が分割されて立子山村と青木村になった。(4町37村)
- 2月3日 小島村が小手村から分立した。(4町38村)
- 明治31年1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。(5町37村)
- 明治34年9月1日 東湯野村が湯野村から分立した。(5町38村)
- 大正4年11月10日 藤田村が町制施行して藤田町となった。(6町37村)
- 昭和2年5月1日 飯野村が町制施行して飯野町となった。(7町36村)
- 昭和3年1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。(8町35村)
- 昭和5年11月3日 明治村が飯野町から分立した。(8町36村)
- 昭和15年
- 4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。(9町35村)
- 5月20日 湯野村が町制施行して湯野町となった。(10町34村)
- 昭和29年3月31日 藤田町、小坂村、大木戸村、森江野村、大枝村の一部(西大枝と川内)が合併して国見町となり、大枝村の一部(東大枝)は梁川町に編入した。(10町30村)
- 大枝村に関しては、明治4年に成立した西大枝村、川内村、東大枝村の3村が明治22年に合併して大枝村となった。昭和29年に藤田町などと合併して国見町になった後、東大枝地区で住民運動が起き、東大枝地区のみ国見町から分離して梁川町に編入した。なお大枝地区の小学校は現在でも大枝村時代に統合された大枝小学校ただ1校しかないため、現在、大枝小学校は伊達市国見町組合立大枝小学校となっている。大枝小学校の卒業生は、西大枝・川内地区では国見町立県北中学校へ、東大枝地区では伊達市立梁川中学校へ進学する。
- 昭和30年
- 昭和32年1月1日 伏黒村が町制施行して伊達町となった。(9町)
- 平成18年1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。
明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和29年 | 昭和30年 - 昭和63年 | 平成元年 - 現在 | 現在 |
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桑折町 | 桑折町 | 桑折町 | 昭和30年1月1日 桑折町 |
桑折町 | 桑折町 | |
睦合村 | 睦合村 | 睦合村 | ||||
伊達崎村 | 伊達崎村 | 伊達崎村 | ||||
半田村 | 半田村 | 半田村 | ||||
藤田村 | 大正4年11月10日 町制 |
昭和29年3月31日 国見町 |
国見町 | 国見町 | 国見町 | |
小坂村 | 小坂村 | |||||
大木戸村 | 大木戸村 | |||||
森江野村 | 森江野村 | |||||
大枝村 | 大枝村(西大枝、川内) 大枝村(東大枝) |
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昭和29年3月31日 梁川町 |
昭和30年3月1日 梁川町 |
平成18年1月1日 伊達市 |
伊達市 | |||
梁川町 | 梁川町 | |||||
五十沢村 | 五十沢村 | 五十沢村 | ||||
富野村 | 富野村 | 富野村 | ||||
山舟生村 | 山舟生村 | 山舟生村 | ||||
白根村 | 白根村 | 白根村 | ||||
堰本村 | 堰本村 | 堰本村 | ||||
粟野村 | 粟野村 | 粟野村 | ||||
保原町 | 保原町 | 保原町 | 昭和30年3月1日 保原町 |
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大田村 | 大田村 | 大田村 | ||||
柱沢村 | 柱沢村 | 柱沢村 | ||||
富成村 | 富成村 | 富成村 | ||||
上保原村 | 上保原村 | 上保原村 | ||||
伏黒村 | 伏黒村 | 伏黒村 | 伊達町 昭和30年9月30日 伊達町を伏黒村に編入 昭和32年1月1日 町制施行で伏黒村を伊達町に改称 |
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長岡村 | 昭和15年4月1日 町制改称 伊達町 |
伊達町 | ||||
掛田村 | 明治31年1月19日 町制 |
掛田町 | 昭和30年1月31日 霊山町 |
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霊山村 | 霊山村 | 霊山村 | ||||
石戸村 | 石戸村 | 石戸村 | ||||
小国村 | 小国村 | 小国村 | ||||
小手川村 | 昭和3年1月1日 町制改称 月舘町 |
月舘町 | 昭和30年3月1日 月舘町 |
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小手村 | 小手村 | 小手村 | ||||
明治26年2月3日 小島村 |
小島村 | 昭和30年3月1日 川俣町 |
川俣町 | 川俣町 | ||
川俣町 | 川俣町 | 川俣町 | ||||
飯坂村 | 飯坂村 | 飯坂村 | ||||
小綱木村 | 小綱木村 | 小綱木村 | ||||
大綱木村 | 大綱木村 | 大綱木村 | ||||
富田村 | 富田村 | 富田村 | ||||
福田村 | 福田村 | 福田村 | ||||
安達郡 山木屋村 |
安達郡 山木屋村 |
安達郡 山木屋村 |
||||
飯野村 | 昭和2年5月1日 町制 |
飯野町 | 昭和30年1月2日 飯野町 |
飯野町 | 飯野町 | |
昭和5年11月3日 明治村 |
明治村 | |||||
大久保村 | 大久保村 | 大久保村 | ||||
立木村 | 明治26年2月3日 青木村 |
青木村 | ||||
明治26年2月3日 立子山村 |
立子山村 | 昭和30年7月10日 福島市に編入 |
福島市 | |||
湯野村 | 昭和15年5月20日 町制 |
湯野町 | 昭和30年3月31日 信夫郡 飯坂町の一部 |
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明治34年9月1日 東湯野村 |
東湯野村 | |||||
茂庭村 | 茂庭村 | 茂庭村 |
[編集] 今後の合併情報
現在、伊達郡川俣町と伊達郡飯野町は福島市と法定合併協議会を設置して2007年7月1日の合併(合併後は福島市)をめざしているが、川俣町議会では2006年9月15日に合併協議会からの離脱動議が議決し、さらに2006年12月1日に川俣町は合併協議会を離脱した。福島市と飯野町は依然協議中。
[編集] 合併情報
■伊達5町合併協議会
■伊達6町合併協議会
■福島市・飯野町合併協議会
- 福島市、飯野町→協議中。福島市、飯野町、川俣町で法定合併協議会を設置したが、川俣町は合併協議会を離脱した。