伯太藩
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伯太藩(はかたはん)は、和泉国泉郡伯太周辺を領有した藩。藩庁は伯太陣屋(大阪府和泉市伯太町)。立藩当初は大庭寺藩(おおばでらはん)。
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[編集] 略史
武蔵国野本藩で1万3千石を所領する渡辺基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、和泉国大庭寺(大阪府堺市)に陣屋を構え、大庭寺藩が立藩した。
その後、享保12年(1727年)には、陣屋を伯太に移し伯太藩が成立した。表高は野本時代と同じく1万3千石である。
基綱は大坂定番となり、「善将」と称せられる名君であった。
以後、9代にわたり在封し、明治4年(1871年)廃藩置県により伯太県となった。その後、堺県を経て大阪府に編入された。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
- 渡辺(わたなべ)家
譜代 13,500石
- 基綱(もとつな)〔従五位下、備中守 大坂定番〕
- 登綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
- 信綱(のぶつな)〔従五位下、豊前守〕
- 伊綱(これつな)〔従五位下、丹後守〕
- 豪綱(ひでつな)〔従五位下、越中守〕
- 春綱(はるつな)〔従五位下、大学頭〕
- 則綱(のりつな)〔従五位下、越中守〕
- 潔綱(きよつな)〔従五位下、備中守〕
- 章綱(あきつな)〔従五位下、備中守〕
[編集] 重臣
- 長坂家
- 今井家
- 白鳥家
- 佐竹家
- 野々村家
- 中村家
- 小林家
- 杉浦家
- 小瀬家
- 向山家
伯太藩向山(むこうやま)家は 武田勝頼の側衆(跡部昌忠・向山出雲守・小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守・秋山紀伊守)八人のひとり向山出雲守の子孫。天正10年(1582年)武田家滅亡後徳川氏に仕え後渡辺氏の家臣となる。 寛文元年(1661年)渡辺吉綱が累進し大坂定番になり向山利右エ門は吉綱と共に大阪へ入る。
- 利右エ門
- 儀右エ門
- 勝秀
- 勝高
- 勝良
- 勝 / 廃藩
- 秀二
- 伊庭家
伊庭家は源氏佐々木氏の支流であり、経方の代より佐々木宮の神主になる。 経方の孫出羽権守重遠は、彼の宇治川の先陣として、戦記にある、四郎高綱と従兄弟の間柄であって、保元の乱に白川殿で戦没した。 この重遠の代に神崎郡伊庭邑に居住し、初めて伊庭氏と名乗る。 重遠の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、實貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年没。 伊庭氏は吉綱に仕えて代官に挙げられ、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を支配するようになった。 佐々木源氏が伊庭氏を名乗ってから25代の後裔にあたる伊庭貞剛は明治12年裁判官から、住友本社に入社、33年2代目総理事として住友財閥の基礎を築いた 煙害で荒れた四国別子銅山への植林や精錬所移転は、環境問題の先駆者として評価される。 企業の進歩発展は青年にあるとして、トップ就任わずか4年で引退してその後一切表舞台に立たなかった。
[編集] 野本藩
野本藩(のもとはん)は江戸時代前期、武蔵国比企郡野本周辺を領有した藩。藩庁は野本陣屋(埼玉県東松山市)。
藩祖は徳川家康に仕え「槍半蔵」の異名をとった渡辺守綱の嫡子・重綱の四男で、武蔵国比企郡に3千石を領有していた吉綱である。吉綱は4代将軍家綱の側衆として仕えていたが、寛文元年(1661年)大坂定番に昇進し1万石を加増され大名に列した。ここに野本藩が成立した。
なお、渡辺宗家は尾張藩徳川家の家老として1万4千石を領している。
藩領は比企郡、河内国志紀郡・古市郡、和泉国大鳥郡・泉郡に分散していた。
2代方綱には嗣子が無く、尾張藩家老である宗家より養子として基綱を迎えた。 基綱は元禄11年(1698年)武蔵国内の所領の一部を近江国に移されたのを機に、和泉国大庭寺に陣屋を移したため廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
- 渡辺(わたなべ)家
譜代 13,000石 (1661年~1698年)
[編集] 重臣
向山利右エ門