保利耕輔
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保利 耕輔(ほり こうすけ、1934年(昭和9年)9月23日 ‐ )は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(10期)。
文部大臣(第138代)。自治大臣(第55代・第56代)。国家公安委員会委員長(第63代・第64代)。
生年月日 | 1934年(昭和9年)9月23日 |
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出生地 | 東京都 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部政治学科卒業 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 会社役員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
特殊法人改革特別委員会委員長 |
世襲の有無 | 2世 父・保利茂(衆議院議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
佐賀3区 |
当選回数 | 10回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(無派閥) |
党役職(現在) | 文教制度調査会会長 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館337号室 |
ウェブサイト | [‐] |
[編集] 概要
東京都出身。衆議院議長、佐藤栄作内閣の官房長官、自由民主党幹事長を歴任した保利茂の長男。
慶應義塾大学法学部政治学科に入学し、在学中は砲丸投げの陸上選手として活躍(本人曰く「砲丸投げの選手は、人と話さなくてもいいから」が理由)。1958年に大学を卒業し、日本精工に入社。1974年にフランス日本精工社長に就任する。
保利個人は、父親の跡を継ぐ気は皆無であったが、父の死にともない後援会の要請を拒否しきれず1979年に衆議院議員総選挙に佐賀全県区から自由民主党公認で出馬し当選する。
田中角栄派に所属し、農林族議員として出発した。自民党総合農政調査会長などを務める。田中派分裂後は竹下登-小渕恵三-橋本龍太郎派(平成研究会)に所属する1990年、第2次海部俊樹内閣の文部大臣として初入閣。文部行政、文教政策は素人であったが、文教関係にも幅を拡げた。1999年には小渕第2次改造内閣の自治大臣兼国家公安委員長に就任。2000年に発足した第1次森喜朗内閣でも留任した。一徹で生真面目な性格で知られ、日本歯科医師連盟からの一億円不正献金をめぐり、橋本龍太郎が平成研究会会長を辞任した際、派閥会長に名前が挙がったが、断固として就任を拒否した。
2005年7月5日、郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず無所属で出馬。自民党公認の広津素子候補らを破り当選を果たす。実は、保利は選挙に大変強い。先代からの非常に強固な地盤を受け継いでいるためで、郵政民営化に反対して刺客を送りこまれた反対派議員の中では最強の地盤を誇るといわれる。だが当選後の特別国会では、再提出された郵政法案に一転して賛成票を投じた。
2006年11月27日、復党届と誓約書を自民党に提出。12月4日、党紀委員会で復党が認められ自民党に復党した(郵政造反組復党問題)。
[編集] 関連項目
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