八ッ場ダム
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八ッ場ダム(やんば-)は利根川の主要な支流である吾妻川中流部、群馬県吾妻郡長野原町川原湯地先に建設が進められている多目的ダムである。2010年度(平成22年度)の完成予定で、完成すれば、神奈川県を除く関東1都5県の水がめとしては9番目のダムとなる。形式は重力式コンクリートダムで高さは131.0m。国土交通省関東地方整備局が事業主体である。
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[編集] 沿革
吾妻川流域の多目的ダム建設計画は1949年(昭和24年)に経済安定本部の諮問機関である治水調査会の答申に基づき建設省によって手掛けられた「利根川改訂改修計画」において、利根川に10箇所のダムを建設する利根川上流ダム群(後の「利根川水系8ダム」)計画に準拠しており、カスリーン台風級の水害から首都・東京及び利根川流域を守る為に1952年(昭和27年)に計画発表された。
当初は堤高115.0m、総貯水容量73,100,000トンのダムとして計画されていた。だが支流の白砂川や万座川から流入する強酸性の河水の為に吾妻川本流には当時の建設技術ではダム建設が出来ず、一旦計画は凍結された。建設省は代替案として白砂川における「六合ダム計画」又は温川における「鳴瀬ダム計画」として吾妻川支流へのダム計画を進めていたが、両ダム計画とも貯水容量や水没物件の点で問題があったため計画は進捗しなかった。
だが1965年(昭和40年)に品木ダム及び草津中和工場を中心とする中和事業・「吾妻川総合開発事業」によって吾妻川の水質が改善した事から1967年(昭和42年)現在の地点にダム建設を決定した。この間首都圏の水需要増大に対応する為計画規模を拡大し、矢木沢ダム(利根川)・下久保ダム(神流川)に次ぐ規模の1億トン級のダムとして事業が発表された。だが計画発表以降、水没地域である長野原町において頑強なダム建設反対運動が起きた。
[編集] ダム建設反対運動史
[編集] 反対の大合唱~『東の八ッ場、西の大滝』~
このダムが当初計画通りに完成すると、名湯として全国的に名高い川原湯温泉街をはじめ340世帯が完全に水没する他、名勝で天然記念物でもある吾妻峡の中間部に建設されるのでその半分以上が水没し、一挙に観光資源が喪失することが心配された。ダムによって地元に還元される固定資産税が、水没地を抱える長野原町ではなく、ダム堤の予定地がある下流の吾妻町(現東吾妻町)に落ちることも問題であった。また、首都圏に住む人々のために、水没地に住む住民が犠牲になることには断固反対するという声が地元では多かった。このようなことから、町議会の「建設絶対反対決議」を始めとして町全体を巻き込む長期に亘った反対運動が展開された。
この間、利根川上流ダム群の中核となる予定だった利根川本川の「沼田ダム計画」が激しい反対運動によって頓挫している。川原湯温泉街では、建設省職員が歩くと鐘や太鼓をたたかれて追い返されるような状態が続いた。この頃より関係者の間では、全く進捗しないダム事業の代名詞として、『東の八ッ場、西の大滝(大滝ダム。紀の川本川・国土交通省近畿地方整備局)』の言葉が囁かれる様になった(尚、大滝ダムは2004年に暫定的な運用が開始されている。大滝ダム着工後は川辺川ダム(川辺川)がその後釜となっている)。
[編集] 補償基準妥結への流れ
1974年(昭和49年)にはダム反対建設の立場の樋田富治郎が町長に選ばれ、着工のめどはさらに遠のいた。一方、行政側は、川原湯温泉をはじめとする地域の生活再建を行うことがダム着工の絶対条件であるという認識から、1980年(昭和55年)に群馬県が生活再建案を提示したのを皮切りとして、地元の生活再建策をつぎつぎと打ち出した。このような対策を支援するための法律的な枠組みとして、1973年(昭和48年)には、水源地域対策特別措置法も制定されている。この法律によって、様々な生活再建対策事業が、受益を受ける下流部の地方公共団体の負担金によって行うことが可能となった。
また、建設省は、吾妻峡を可能な限り保存する観点から、昭和40年代にダムの建設場所を当初の予定よりも600m上流に移動させることを表明した。その結果、吾妻峡の約4分の3は残り、一番の観光スポットである鹿飛橋も沈まずに残る事となった。1992年(平成4年)には、ダム建設推進を前提とした協定書が長野原町、群馬県、建設省の間で締結された。その2年前の1990年(平成2年)には、ダム建設賛成の立場の田村守が長野原町長に就任している。協定書締結後、1994年(平成6年)にはダム建設のための最初の工事として工事用道路の建設が始まった。そして、2001年(平成13年)年には、長野原町内のダム事業用地を買収する際の価格を決める補償基準が妥結した。
[編集] 補償基準の問題点~住民流出~
この補償基準妥結後、地域から流出する住民が後を絶たず、2005年末時点で、すでに当初の半数以上の世帯が転出し、住民流出に歯止めがかかっていない。2006年4月現在、全水没地区である川原湯・川原畑における代替地への移転希望世帯数は50世帯余りと、当初世帯数の五分の一以下となっている。地域外への住民流出の一因は、補償基準妥結時点では地元での移転代替地がまだ完成するまで相当の時間を要する状況にあったことがある。すぐにでも移転したい意向を持つ人々の多くが、移転代替地の完成を待つよりも、町内外の他の場所に移住することを選択したのである。また、国が造成する移転代替地を移転住民に分譲する際の価格が、地元の人の多くが期待したほどには安くなかったことも、移転代替地以外への移住を促進した面がある。
八ッ場ダムの移転代替地については、現地再建方式(ずり上がり方式)と呼ばれる、ダム湖より上の山腹部(将来は湖畔となる部分)に建設される方式が採られているが、この方式によりこれまでの居住地域と隣接した場所に代替地を確保することとしたことが、完成時期、分譲価格の両面にわたって、制約条件を大きくしたという見方もある。
移転代替地の分譲価格等を決める分譲基準をめぐる交渉は、1年以上の期間を要し、2005年(平成17年)9月に妥結した。移転代替地は2006年から2007年頃にかけて分譲される予定となっており、2006年度初頭現在、分譲区画の割付や、移転代替地上に設けられる様々な施設の位置についての調整が住民と行政の間で進められている。
[編集] 課題と今後の展望
八ッ場ダムの工事については、1994年に最初の道路工事が行われて以降、道路工事や代替地造成工事を中心として工事量が年々増大してきている。ダム建設に伴って国道145号が水没し集落がダム湖で分断されることもあって、ダムの湖岸には片側に地域高規格道路としての位置付けを持つ新しい国道145号が、対岸には県道が建設中である。また、JR東日本・吾妻線の付け替え、防災ダム建設なども進められている。現在の国道145号は、土砂災害の危険があるため吾妻峡付近が連続雨量120mmで通行止となる雨に弱い道路であり、JR吾妻線についてもトンネル区間が増えて、時間短縮や災害対応の面での改善も見込めることから、ダム建設に付随して交通環境が改善されることを期待する意見がある。ダムと吾妻峡、そしてダム関連で整備された温泉街などの各種施設があいまって、観光集客力が増すことを期待する人も多い。
その一方で一部住民の間では、逆に川原湯温泉の水没により観光客が減少し、ダム完成後に乗降客の減少により吾妻線が廃止されるのではないかという懸念を示す向きもある。地元では廃止の風聞も立っているが現状としては付替え工事を進めている事から、吾妻線の存廃についてJR側からは何も示されてはいない。
ダム本体については2006年現在未着工であるが、ダム地点を干上がらせてダム本体工事を行えるようにするために川の水をトンネルに迂回させる転流工と呼ばれる工事が2006年度末頃から行われる予定である。また、本体の概略設計は2005年(平成17年)に実施済みで、さらに精度を上げた実施設計が2006年度に実施されている。現在のダムサイト予定地は、1970年63回国会、衆議院地方行政委員会で「ダムの基礎地盤としてきわめて不安定」と指摘された場所であり、ダムに反対する立場の人の中には不適切な地質条件の場所であると考えている人が多い。一方で国土交通省は、その後の地質調査の結果からみて、ダム建設には問題無い場所であるとの見解を示している。
近年の公共事業再評価に伴う相次ぐダム計画中止や、首都圏の水需要減少の中、ダム建設に懐疑的な意見も根強い。近年のダムとしては利水の面で開発単価が安いことや、利根川全体の治水対策の中で、吾妻川流域を中心とした豪雨への備えとして八ッ場ダムが重要であることを理由として、国や関係都県は、ダム推進の姿勢を崩していない。2004年、八ッ場ダム事業は二度目の計画変更を行い、事業費が2100億円から4600億円に上昇。事業反対派は、建設事業費に基金事業費、起債の利息も含めると、総額8800億円になるという試算を示し、文字通り日本のダムの歴史上最も高額なダム計画となったとしている。こうした考え方も論拠の一つとして、ダムの恩恵を受けるとされてきた利根川下流の一部住民からは「ムダな公共事業」との批判が起こり、2004年11月、関係都県(東京、千葉、埼玉、群馬、茨城、栃木)の地方裁判所において、公金支出の差し止めを求める住民訴訟が提訴された。
川原湯温泉では貴重な自然湧出の源泉がダムに沈むことになり、ボーリング調査によって新源泉が掘り当てられたものの、湯量、泉質ともに旧源泉の代替となるのか、観光地として成り立つかどうか、不安視する意見もある。水没地区全体では、ダム事業に批判的で、土地提供に容易に応じない地権者もいる。一方、様々な生活再建支援事業も活かして、移転代替地で新たな発展を目指そうという考え方の住民もいる。2006年現在、移転が進んで町が一時的にさびれる過渡期の状況に置かれている地元住民の間では、「この中途半端な状況から早く抜け出したい。国の政策に逆らうことは不可能。ダム事業を少しでも速く進めることで、生活再建を図るしかない」という声もある。同年夏、国・県・長野原町は、各種施設の維持管理費負担等も考慮した上で将来的にわたって望ましい生活再建策を再構築する必要があることなどを理由に水源地域対策特別措置法などによる生活再建事業の縮小案を提示した。これに対して、地元住民の間では、あきらめと不安の声を示す意見もあるが、これを機として新たな居住予定地の整備計画の具体化を進める動きも加速しており、「ダム事業絶対反対」であった昔の状況とは著しい対照をみせている。
日本の長期化ダム事業の代表例であり、様々な問題を投げ掛けたダム事業であるが、国は間も無く、本体工事の前段階である転流工(川のバイパス工事)に取り掛かりたいとしている。源頼朝以来の古い歴史を有する川原湯温泉は、困難な状況の中、危機をどの様に乗り越えていくかを模索しているが、代替地の第一期分譲を来年に控え、水道、ガス、電気などのライフラインはいずれも暫定的な応急措置で間に合わせるとされており、現実は厳しいと見る人もいる。
[編集] 参考文献
- 『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年
- 『日本の多目的ダム』1972年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1972年
- 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
- 『八ッ場ダムは止まるか-首都圏最大の巨大ダム計画』:八ッ場ダムを考える会編。岩波書店 2005年
[編集] 関連項目
- ダム
- 日本のダム
- 重力式コンクリートダム
- 多目的ダム
- 国土交通省直轄ダム・関東地方整備局
- 利根川水系8ダム
- 公共事業
- ダム建設の是非・日本の長期化ダム事業・水源地域対策特別措置法
- 川原湯温泉・樽沢トンネル
[編集] 外部リンク
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