八紘一宇
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八紘一宇(はっこういちう)とは、第二次世界大戦前の日本における国是とされた標語。「天下を一つの家のようにする」と言う意味として使われた。
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概要
由来
語の由来は、日蓮宗からの新宗教団体国柱会の田中智學が明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から造語したものである。なお八紘とは『淮南子』にある「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」に由来する。
本来の意味
1940年、近衛文麿首相が「皇国の国是は、八紘を一宇となす建国の精神に基づく。」と発言した。この精神は欧米の白人優越主義への反発から、人種による差別の撤廃や民族自決を謳ったものである。
日本船舶振興会会長の笹川良一が呼びかけた「人類皆兄弟」というのは八紘一宇の現代語訳と言われている。
スローガンへ
戦後、植民地における日本軍の数々の行いから、八紘一宇とは、日本によるアジアへの侵略のための、「アジアは地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし」というような皇国思想的なプロパガンダとしてアジア・太平洋戦争の正当化に使われた思想であるとされた。
日本の敗戦によって、当初日本を植民地の宗主国からの解放者とみなしていた植民地の人々も、戦局の悪化による軍役負担の増大、軍票制度などの軍政の破綻、現地住民への虐待被害などにより、日本を欧米列強と同様の支配者に過ぎないと見做すようになっていった。
一方で、このアジア解放の為の思想を信じた日本兵や、日本を解放者と信じた植民地の人々や軍属もおり、敗戦後、独立活動家やゲリラ、独立軍軍人や支援者として、個人的に東南アジアの独立運動へと身を投じた(武装解除・帰国命令への不服従であり軍法上は無断離脱である)。
結果的には、第二次世界大戦を契機にして、アジア諸国を始めとする欧米列強の植民地となっていた国々が、再び植民地支配に抵抗を開始し、独立することとなる。
八紘一宇の塔
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にそびえ立つ塔。正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。現在は「平和の塔」と呼ばれている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に昭和15年、「皇紀2600年」を記念して建造された。建築にあたっては、旧日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用されている。高さ37m、塔の四隅には武人埴輪像、正面中央に秩父宮の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。大東亜戦争後に「八紘一宇」の文字はいったん削られたが、後に再興された。また、この塔の建立に当たっては全国からの募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。
東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。