共政会
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五代目共政会(きょうせいかい)は、広島市南区に本拠を置く日本の指定暴力団。活動地域は広島市と広島県呉市。構成員は2004年6月現在で約300人(準構成員を含めると約630人)。かつては反山口組の中国地方の主力であったが、次第に関係を改善し、2005年以降は六代目山口組の親戚団体となっている。
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[編集] 歴史
三代目山口組と本多会との代理戦争となった第2次広島抗争が小休止していた1964年5月に、呉の博徒・山村組の組長・山村辰雄を中心に山村組、村上組、山口(英)組の広島の3団体が「政治結社共政会」として結成した。翌6月に結成式が行われた際には更に4団体が加入し、総勢7団体 約600人となった。会長には山村、副会長には村上組組長・村上正明、理事長には山村組若頭・服部 武、幹事長には山口(英)組組長・山口英弘が それぞれ就任した。
1986年3月、3代目会長・山田 久と、侠道会会長・森田幸吉、波谷組組長・波谷守之、親和会会長・細谷勝彦の計4人が兄弟盃を交わし、西日本の友好関係を強化したが、山田は1987年11月に急死。跡目未定の状況下の1990年1月、傘下の島上組 稲田組系 右翼団体(維新天誅会)構成員が五代目山口組舎弟・石間春夫(初代誠友会総長)を射殺する事件を起こして山口組との抗争に発展した。広島から副会長の片山 薫(片山組組長)、相談役の門 広(小原一家総長)の2人が神戸を訪れ、……。これをきっかけに理事長・沖本 勲が山口組 三代目山健組組長・桑田兼吉と兄弟盃を交わすことになり、山健組との関係を構築した。
1990年9月、沖本は4代目会長に就任。組織の要である副会長兼理事長には片山 薫が就いた[1]。1992年7月に広島県公安委員会から指定暴力団に指定された。1996年2月に沖本と、桑田(この間に山口組若頭補佐に就任)、四代目会津小鉄若頭・図越利次(後の五代目会津小鉄会会長)による3兄弟盃を交わして、友好路線を更に推し進めた。
2003年8月に沖本が病死すると、翌2004年4月に副会長・守屋 輯(守屋組組長)が5代目会長に就任。新会長の後見人に五代目山口組組長・渡辺芳則を迎え、山口組との関係を より確かなものにした。
[編集] 「仁義なき戦い」
映画「仁義なき戦い」は、元山村組幹部の美能組組長・美能幸三が刑務所で書いた手記を元に、飯干晃一が著した同名小説を原作として作られており、共政会と その前身・山村組、岡組ほかがモデルとされるが、呉の樋上組の長江派は侠道会、浜部派は合田一家と合流している。「仁義なき戦い」5部作の最終話・完結編は共政会創立時のエピソードが全編に渡り展開される。共政会は「天政会」という名称で、また前述の人物の多くも名前を変えて登場する。
[編集] 歴代会長
- 初代(1964年5月~1965年6月):山村辰雄
- 2代目(1965年11月~1970年11月):服部 武
- 3代目(1970年11月~1987年11月):山田 久
- 4代目(1990年9月~2003年8月):沖本 勲
- 5代目(2004年4月~):守屋 輯
[編集] 最高幹部
- 最高顧問・北山昭男(二代目中国高木会会長) - 村上組出身
- 顧問・有木 博(有木組組長)
- 会長代行・石井謙二(石井組組長)
- 常任相談役・野村 博(野村組組長) - 西の岡組組員・藤井幸一を射殺
- 相談役・尾崎幸夫(尾崎組組長)
- 副会長・藤田靖彦(藤田組組長)
- 副会長・藤田燿士(藤田組組長)
- 副会長・吉岡信彦(吉岡組組長) - 小学校の同窓会で可部温泉「松福荘」を訪れていた西友会会長・岡 友秋を射殺
- 理事長・宮藤正行(二代目沖本組組長)
- 幹事長・木多修孝(木多組組長) - 美能組組員・湯藤 巍が刺された報復として樋上組組員・熊谷啓一を刺した
- 執行部/風紀委員長・下手尚美(下手組組長)
[編集] 脚註
- ^ その後、理事長は守屋 輯(守屋組組長)に交代した。