出羽錦忠雄
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出羽錦 忠雄(でわにしき ただお、本名: 奈良崎 忠雄、1925年7月15日 - 2005年1月1日)は、東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。
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[編集] 来歴
1940年5月場所、出羽海部屋から初土俵をふむ。最初は番付につくまで時間がかかったが、1944年1月場所三段目優勝、5月場所幕下で全勝(優勝は上位に全勝者がいたのでできなかった)し、注目を浴びる。復員後1946年11月場所に新十両、翌場所、初めて導入された優勝決定戦で吉葉山潤之輔を破り十両優勝し、2場所で十両を突破し、1947年11月に入幕を果たした。
入幕当初は突っ張りをまじえた速攻の相撲で「安芸ノ海」の再来といわれ将来を嘱望されたが、不動岩との対戦で膝を故障してからは腰を落として守りをかためる消極的な取り口に変わった。いったん守りに入れば、若乃花でも手をやくほどで、3度の引き分けを記録している。
仕切りなおしで盛大に塩をまく若秩父に対して、指先でちょろちょろとまいて館内の笑いをさそった。「塩などは安いもんだと若秩父」「出羽錦塩の値段を知っており」と川柳にも読まれた。こうしたユニークな土俵態度で非常に人気があった。
栃錦とは同期生であり親友でもあったためよくいっしょに稽古をした。部屋こそ違えど同じ一門であり稽古も巡業も一門別だった当時は顔を合わせる機会は多かった。かつてこの2人で初っ切りを行なったこともあるが、当時は初っ切りを行った力士は出世しないという悪い縁起があった。しかし栃錦は横綱、出羽錦は関脇まで昇進し悪い縁起も2人で見事破った。栃錦が横綱となって個人用の控え部屋を用意されても、出入りを許されていた。栃錦の突然の引退もひとり察していたらしい。栃錦の引退相撲では弓取を披露した。
自分が初土俵を踏んだ時にはまだ産まれてもいなかった大鵬とは数々の名勝負があり、猫だましをかます、立合いいきなり万歳をして両差しを狙った大鵬の両腕を抱えて極出すなどたびたび苦しめた。「関脇は務まらなくても大関なら務まる」と言わしめた。大関を期待されながら関脇在位時に1度も勝越がないことが関係していると思われる。
佐田の山の指導を担当し、「晋松(佐田の山)が綱をとったら儂が太刀持をやるからそれまでは引退しない」と常々言っていたが実現する前に1964年9月場所限りで力尽き引退、翌年1月場所後に佐田の山は横綱に推挙され、出羽錦の引退相撲で土俵入りを披露、ぎりぎりで間に合ってどうにか恩を返すことができた。幕内在位期間16年10ヶ月は年6場所制の制定後は歴代1位である。
引退後は、年寄・田子ノ浦を襲名。巡業部や審判部に所属した。後の解説時代の好々爺からは考えられないが「鬼の出羽錦。」の異名をとるほど厳しい指導でを行った。巡業部在職中の1971年夏巡業の折、場所が終わると親方衆や力士は皆夜の街に繰り出すのでその世話をしていたが、横綱玉の海正洋だけが連日一人で宿舎に留まっていることに気付き、「横綱はなぜ遊びに行かないのか」と尋ねると、玉の海は「自分は皆と一緒に遊んでいたら体が持ちません」と答えた。その年の7月場所で全勝優勝を飾ったばかりの横綱が妙なことを言うと不思議に思っていたが、同年10月11日、玉の海は急死。出羽錦は後年テレビ解説中に「既に7月場所終了時には体調の変化を自覚していたのではないか」と語っている。勝負審判は定年まで勤めた。
年寄在職中からテレビドラマなどに出演し、料亭の主人役などを演じた。協会を定年退職後はNHKの大相撲中継の解説者をつとめ、やはりそのユニークな語り口で人気があった。放映中、突然川柳を読むことでも知られ、
「勇退の叔父にはなむけ初賜杯」
「寝て起きてまた強くなる貴花田」
「曙が朝日に変わる九月場所」
「智ノ花先生辞めてよかったね」
などを残した。また、タレントとして連続テレビ小説「ひらり」や「クイズ日本人の質問」に出演した。
解説を引退して以降は膝の故障の影響で杖が手離せなくなっていたという。
2005年1月1日、膵臓癌のため死去。辞世の句は「孫の手握り にっこりと まごまごせずに 友のいる国」。
[編集] 主な成績
- 幕内成績;542勝556敗3分40休
- 幕内在位:77場所
- 関脇在位:3場所
- 小結在位:14場所
- 優勝次点 4回
[編集] 三賞・金賞
[編集] 改名歴
- 小倉
- 出羽錦
[編集] 年寄変遷
- 田子ノ浦
[編集] 親族
- 中本賢(俳優・コメディアン) 女婿
[編集] 関連項目
カテゴリ: 東京都出身の大相撲力士 | 1925年生 | 2005年没