劉岱 (劉ヨウの兄)
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劉岱(りゅう たい、147年?-192年)は、後漢末期の兗州刺史。劉本(劉丕)の孫、劉輿(劉方)の子、劉寵の甥で、劉韙の従子である。家系は劉氏。揚州刺史・劉繇の兄。字は公山で、漢の皇族系(前漢の高祖の孫で、悼恵王の庶子である斉の孝王劉将閭の子孫に当たる)。
[編集] 経歴
[編集] 名門の御曹司として
青州東莱郡牟平県(山東省東部)の人。初めは後漢の侍中(皇帝の側近)として朝廷に仕えていたが、黄巾の乱鎮圧で勇名を馳せる。董卓が実権を掌握すると、董卓によって兗州刺史として赴任させられてしまった。曹操(正史では橋瑁)が董卓討伐軍を起こした時、これに呼応して反董卓軍の一人として参加し、虎牢関攻めなどで活躍した。しかし、同じ反董卓軍の一人であった橋瑁(喬瑁)と兵糧の借用問題から拗れて対立に発展し、ついに橋瑁を殺害している。
その後、青州の黄巾軍が兗州に侵攻して来る。配下の鮑信は黄巾軍が圧倒的兵力であったことから鎮圧することは難しいので、籠城することを進めたが、劉岱は諌めを聞かずに出陣して討死した。その後、この乱を鎮圧した曹操が兗州刺史を継ぐこととなるのである。
一説では、彼は実弟の劉繇と共に清廉で人望のある兄弟として定評があったという。
[編集] 正史と演義における「劉岱」
正史では劉岱は192年、黄巾軍と戦って戦死している。しかし、演義では、劉岱は曹操の家臣として仕え、徐州で曹操に謀反を起こした劉備と戦って張飛の策により劉備に捕らえられた後に曹操の元へ解放されたために曹操の怒りに触れ処刑されそうになるが、孔融の取りなしで降格処分で済まされている。
近年の研究によると、正史において兗州刺史・劉岱とは別に曹操配下の武将に同姓同名でしかも字(あざな)までが同一という二人いることが判明した。これは名前の「岱」が中国の名山の泰山を意味し、そこから、二人の劉岱が「公山」という字を名乗ってしまったためである。つまり、兗州刺史の劉岱と曹操配下の劉岱は、全くの別人ということである。しかし、偶然にも名前だけでなく字までもが同じだった事、兗州刺史・劉岱戦死後に後任の兗州刺史として曹操が任命されて曹操配下の劉岱も活躍の場を兗州に移したことから、両者が混同されて演義では二人の劉岱が同一人物として描かれてしまったようである。