北ドイツ連邦
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北ドイツ連邦(きたドイツれんぽう、独:Norddeutscher Bund)とは1867年にドイツ北部のプロイセン王国を主体に22の領邦から成る連合体を指す。1871年のドイツ帝国(ドイツ国)の母体となり、機構の大部分は引き継がれた。
なおNorddeutscher Bund は Bundesstaat (連邦国家)ではなく、領邦や自由都市の緩やかな連合体すなわち Staatenbund (国家連合)にすぎないとし、北ドイツ同盟と訳す考えもある。[1] 英語では North German Confederation と訳されている。
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[編集] 背景および制度
普墺戦争に勝利したプロイセン王国は、オーストリアの主導するドイツ連邦を解体し、ドイツ関税同盟によってかねてから結びつきの強かったドイツ北部諸邦と連合する連邦国家を成立させた。連邦主席 (Präsidum des Bundes) はプロイセン国王が務め、宣戦・講和・条約締結ならびに陸海軍を指揮する権利を占有した。北ドイツ連邦の首相 (Kanzler des Norddeutschen Bundes) はプロイセン首相 (Preussischer Ministerpräsident) であるビスマルクが務め、また連邦参議院議長 (Präsident des Bundesrates) も兼任した。主権は各領邦に残されたものの、プロイセン王国だけで国土・人口の8割以上を占め、プロイセンとその属国の連合体の性格が強かった。バイエルン王国を中心とするドイツ南部の諸邦には反プロイセン・親オーストリアの気風があったため、プロイセン首相は、先ずオーストリアを除く小ドイツ主義によるドイツ統一を目指し、目的の第一歩を標した。
連邦政府の組織としては、諸邦の代表による連邦参議院と男子普通・直接選挙による連邦議会があり、連邦議会は立法権および予算審議権を有した。北ドイツ連邦の存続期間を通して、連邦主席はヴィルヘルム1世、連邦首相はビスマルクであった。
[編集] 加盟諸邦
- プロイセン王国
- ザクセン王国
- メクレンブルク=シュヴェリン大公国
- ザクセン=ヴァイマル大公国
- メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
- オルデンブルク大公国
- ブラウンシュヴァイク公国
- ザクセン=マイニンゲン公国
- ザクセン=アルテンブルク公国
- ザクセン=コーブルク=ゴータ公国
- アンハルト公国
- シュワルツブルク=ルードルシュタット侯国
- シュワルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国
- リッペ侯国
- ロイス侯国(兄系)
- ロイス侯国(弟系)
- 自由ハンザ都市リューベック
- 自由ハンザ都市ブレーメン
- 自由ハンザ都市ハンブルク
- ヘッセン大公国、現ヘッセン州のマイン川以北領地
[編集] 北ドイツ連邦に加盟しなかった他の主なドイツ諸邦
[編集] 参考文献
- ^ 「北ドイツ同盟」を用いる例に、栗城壽夫『一九世紀ドイツ憲法理論の研究』信山社 がある。
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