南部利祥
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南部 利祥(なんぶ としなが、明治15年(1882年)1月25日 - 明治38年(1905年)3月4日)は、南部家第42代当主。15代盛岡藩主南部利恭の長男。階級は陸軍騎兵少尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。
明治23年、学習院初等科三年生のとき、皇太子(大正天皇)の学友に選抜される。
教育係の東條英教(東條英機の父)の勧めにより陸軍に仕官し、明治36年(1903年)6月に陸軍騎兵少尉に任じられる。同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発し利祥は満州の最前線で活動した。翌明治38年(1905年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日に銃弾を浴び戦死。享年23。
利祥の栄誉を後世に残すため旧盛岡藩士らによって、明治41年(1908年)岩手公園に利祥の銅像が建立された。しかし、太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残されるのみである。