大洲城
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天守と台所櫓(2005年10月26日東側より撮影) | |
通称 |
比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
複合連結式層塔型 |
築城主 |
宇都宮豊房 |
築城年 |
元徳3年(1331年) |
主な改修者 |
藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰 |
主な城主 |
宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存櫓、石垣、堀 |
位置 |
大洲城(おおずじょう)は伊予国喜多郡大洲(愛媛県大洲市大洲)にあった城である。別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城(大洲の旧称)など。
目次 |
[編集] 概要
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。
[編集] 歴史
大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。
この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、天正初年(1573年から75年あたりか)に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守(建築様式が慶長年間のものであるため、淡路の洲本城天主を移設したとの説あり)をはじめとする建造物が造営された。また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に渡り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥(1・2層の間に設けられた吹き抜け構造が原因)のために明治21年(1888年)に解体された。
[編集] 平成の天守復元
現在の大洲城天守は、第二次世界大戦後初めての、四層四階建て純木造で復元された天守である。明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わっていた木組み模型など内部構造を明らかにする資料が充実していたため、往時の姿を正確に復元することができた。この様な資料が残るケースは、日本でも数が少ない。また天守の高さは石垣の上からでも19.15mもあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、当時の建設省や愛媛県はなかなか首を縦に振らなかったが、大洲市の熱意と努力により二年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、復元に至った。
[編集] 現存建築物
(いずれも国の重要文化財)
- 台所櫓
- 高欄櫓
- 苧綿櫓 (肱川堤防上にある)
- 三の丸南隅櫓 (大洲城最古の建築物)
[編集] 天守観覧
開館時間 9時~17時 休館日 12月29日~31日 観覧料 大人500円 小人200円(中学生以下)
5歳以下の幼児、高齢者手帳もしくは身体障害者手帳の所持者とその付添いは無料。団体割引あり
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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