大鳥圭介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大鳥 圭介 | |
---|---|
1833年4月14日 - 1911年6月15日 | |
![]() |
|
忠誠 | 江戸幕府 蝦夷共和国 |
指揮 | 歩兵奉行(幕府) 陸軍奉行(蝦夷) |
戦闘 | 戊辰戦争、函館戦争 |
除隊後 | 学習院院長 |

大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、日本の武士・幕臣、官僚である。正二位勲一等男爵
目次 |
[編集] 経歴
播磨赤穂(現・兵庫県)に医師の子として生まれる。1852年に岡山藩の閑谷学校で漢学を学び、後大坂の緒方洪庵の主宰する適塾で蘭学と西洋医学を学んだ後、1854年江戸に出て坪井塾で塾頭となる。1857年には縄武館(江川塾)に教授として招かれる傍ら、西洋砲術を学んだ。1863年に陸軍所に出仕した後、幕臣に取り立てられ1868年歩兵奉行に進み、幕府洋式陸軍の育成や訓練にあたった。
戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて江戸を脱走し、宇都宮、今市、会津を転戦する。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷に渡り、共和国政府の陸軍奉行となる。箱館五稜郭で抵抗するが降伏し、投獄される。大鳥は、確かに用兵学には通じていたが、実際の戦闘指揮は、それほど上手とは言えなかった。だが、「将才」は無くとも「将器」は有り、連敗しても泰然としており、常に笑顔を失わなかったと言う。五稜郭の戦いでも、敗北が決定的になった後、あくまでも徹底抗戦を主張する同僚に「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか。」と開き直って降伏を受け入れた。
1872年に出獄後、学識が高く評価されて新政府に出仕し欧米を視察。帰国後は技術官僚として工部省などにて産業の近代化に貢献した。工部大学校校長、元老院議官、華族女学校校長、などを経て、1886年から第三代学習院院長となる。1889年駐清国特命全権公使として赴任し、朝鮮公使を兼任。日清戦争開戦直前の外交交渉にあたった。のち枢密顧問官を務めた。男爵。
出身地の岩木は現在の兵庫県上郡町域に当たり、上郡町役場前には大鳥の銅像が立つ。
[編集] 大鳥活字
1860年代に縄武館や陸軍所での印刷に供するのに、オランダ伝来の技術書を参照して明朝風楷書体活字を鋳造し、『築城典刑』『砲科新論』など数十点を出版した(ただし、全ての本に活字を使用したわけではなく、また、活字を利用した本でも製版による印刷を行ったページもあるなど、夫々の本を精査する必要は有る)。材質は亜鉛・錫とされる。活字はその後戊辰戦争のとき、大鳥が幕府方についたため彼の屋敷が焼かれたためなくなり、僅かに印刷された本が残るのみである。
※上記の「屋敷が焼かれた」という記述は今のところ何処にも発見できない。大鳥の当時の屋敷は神田駿河台にあったが、駿河台の旗本屋敷は一切焼かれておらず、明治2年の官製地図(吉田屋)にも、文久3年の尾張屋小川町絵図とほぼ同じ区割りで残っている。官軍はできるかぎり幕府の遺構をそのまま活用することを旨とし、文書から建物に至るまで、焼き払うということはなかった。 明治6年の地図ではこの地区は白地図扱いになっているが、それは住人が駿河へ移住して荒廃した町を再建するために取り壊したものと思われる。(明治2年、5年の大火はこの地区を焼いてはいなかったはず) ただ、大鳥活字が幕末の混乱期に行方知れずになったというのは事実。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 府川充男「和文活字の「傍流」」(印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』所収、柏書房、2000)
- 府川充男「小括-幕末和文鋳造活字の展相」(西野嘉章編『歴史の文字 記載・活字・活版』東京大学総合研究博物館、1996)
[編集] 扱われた作品
- 「五稜郭 (テレビドラマ)」(日本テレビ年末時代劇スペシャル)
|
|