官営幌内鉄道
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官営幌内鉄道(かんえいほろないてつどう)は、かつて北海道に存在した官営の鉄道事業者。北海道開拓使の運営。
後の手宮線(1985年廃止)・函館本線南小樽駅~岩見沢駅間・幌内線(1987年廃止)などを建設したが、1889年に民営の北海道炭礦鉄道に路線を譲渡して消滅した。
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[編集] 沿革
[編集] 建設前史
1869年(明治2年)、発足したばかりの明治政府は北海道の資源開発のため、北海道開拓使という官庁を設置し、北海道の開拓・経営に乗り出した。開拓使では、アメリカ人技師ホーレス・ケプロンを招いて資源調査を行い、幌内川上流の炭田が埋蔵量が多く、有望であると判明した。そこで、改めてアメリカ人技師B・ライマンを招いて、炭田の開発計画を立案させることとなった。
ケプロンは幌内~室蘭間に鉄道を敷設し、室蘭港からの石炭積み出しを計画したが、ライマンは幌内~幌向太(現在の江別付近)に鉄道を敷設し、そこから石狩川を利用した川舟により小樽港へ運び、そこで本船に積み替える計画とした。開拓使では、ライマンの計画のほうが経費がかからないことから、1878年(明治11年)3月にこの計画を承認し、翌年アメリカから鉄道技師ジョセフ・U・クロフォードを招いて、幌内~幌向太間の測量を開始した。
しかし、幌向太付近はヤチと呼ばれる湿地が多く、積替え設備の設置や駅夫の居住に適さないうえ、石狩川は冬季の結氷により舟運を利用できるのは年150日程度しかないことが判明し、クロフォードは再び計画を変更し、幌内太から小樽に鉄道を延長し、小樽港から石炭を積み出すよう提案した。これにより、年間を通じて鉄道による安定輸送が可能となり、桟橋の上に線路を敷設すれば、貨車から直接船積みができ、川舟への積替えの手間やその際の石炭の減耗も防げることから、開拓使長官黒田清隆はこれを承認することとした。
[編集] 幌内鉄道の開業
建設工事は、1880年(明治13年)1月、小樽市内の若竹第3隧道から着工され、同年10月24日には手宮~銭函間で試運転を行ない、11月28日には手宮~札幌間の22マイル25チェーン(約35.9km)が開通した。
この鉄道は、日本初の京浜間鉄道や阪神間鉄道などがイギリス様式で建設されたのに対し、本鉄道はアメリカ様式で建設された。建設経費の節約や、アメリカの流儀からいけば、この鉄道は914mm軌間で建設されたであろうが、将来、敷設されるであろう他の鉄道との接続を考慮した黒田の方針により、本州の鉄道と同じ1067mm軌間が採用された。これは、黒田の卓見であったというべきである。
レールは15kg(30ポンド/ヤード)の錬鉄製、枕木の本数は少なく道床も薄かった。手宮に機関庫と工場が設けられたが、小樽駅(現在の南小樽駅)や札幌駅は仮駅で、途中の朝里、軽川、琴似の各駅は、「フラグストップステーション」(列車に乗る場合、駅に置かれた旗を上げておいて機関士に知らせ、旗が立っていない場合は通過させる鉄道駅)アメリカ式の駅であった。
開業に当たっては、アメリカのポーター社から蒸気機関車2両、ホリングスワース社から2軸ボギー客車8両が輸入された。蒸気機関車(後の鉄道院7100形)は、1,2と付番されたほか「義経」「弁慶」と命名された。いずれもアメリカの西部開拓期を思わせるようなスタイルの車両である。1881年(明治14年)8月、明治天皇の北海道巡幸があり、これらの車両を使用して、小樽~札幌間で北海道初のお召列車が運転された。天皇の御乗用としては最上級の客車であった「開拓使号」が使用され、「義経」が9両編成の列車を牽引した(異説もある)。
1882年(明治15年)2月、開拓使は廃止され、鉄道と炭鉱は工部省の所管となった。同年6月、札幌~江別間が仮開業し、11月には手宮~幌内間が全通した。翌1883年(明治16年)9月17日には、手宮~幌内間鉄道の開業式が札幌で開催され、皇族や陸軍卿のほか、鉄道局長井上勝も列席している。この日は、市民の鉄道への理解を深めるため、終日無料で開放されたという。
[編集] 北有社の経営請負へ
幌内鉄道の経営は、決して順調ではなかった。1880年から1885年までの6年度のうち、収益のあったのはわずか2年度のみで、札幌~幌内間開業後の営業係数は200近いという有様であった。これには、石炭の運送は無賃であったというのが大きく影響している。1886年(明治19年)1月、鉄道と炭鉱は工部省から北海道庁に移管された。北海道庁は開拓使や工部省のような潤沢な予算を持たなかったため、翌1887年(明治20年)4月、炭砿鉄道事務所を廃止して炭鉱と鉄道を分離し、北海道鉄道事務所とした。それにともなって、事務所を札幌から手宮に移している。
同年12月、4月まで炭砿鉄道事務所長の職にあった村田堤から、幌内鉄道の運営を請け負い、未成線となっていた幾春別線を開業させたいとの出願があった。村田は、黒田の腹心の一人である。これは欠損続きの幌内鉄道を村田に引受けさせようとしたのか、村田が自ら出願したのかは不明であるが、北海道庁長官の上申書には、「石炭の販路が拡大したため、幌内の石炭だけでは足りなくなったので、未成線の幾春別線を建設して幾春別炭鉱を開発したいのだが、鉄道の欠損によりその費用を出すのは不可能である。しかし、これを民間に請け負わせれば事務も簡素化されて収支は償い、賃貸料を有益な事業に活用できる。」旨が記されている。
1888年(明治21年)3月、北海道庁は村田の出願を認可し、村田は北有社(ほくゆうしゃ)という団体を設立して幌内鉄道の運営を請け負うこととなった。請負期間は、1888年4月から15年間とされ、年間の借料は5000円とされた。北有社は設備の保守料を負担し、運賃や運転回数は北海道庁の定めた運行規程によることとした。これにより業績は回復し、1888年度の営業係数は70程度となった。
幌内太(後の三笠)~幾春別間は、1886年5月に着工していたものの、石炭価格の低下により工事は中断されていたが、村田は請負直後の1888年5月に工事を再開し、同年12月10日に開業させた。同線は、建設費を節約したため起伏の多い急勾配の介在する線形となった。
[編集] 車両
[編集] 蒸気機関車
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