宣帝 (北周)
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姓名 | 宇文贇 |
年号 | 大成 578年-579年 |
廟号 | - |
字 | 乾伯 |
諡号 | 宣皇帝 |
生没年 | 559年-580年 |
在位 | 578年-579年 |
父 | 武帝(長男) |
母 | 李太后 |
宇文贇(うぶんいん、559年 - 580年)は中国・北周の第四代皇帝(在位578年 - 579年)。諡は宣皇帝。武帝の長男。
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[編集] 略歴
皇太子ではあったものの周囲からその資質を疑問視されていて、父親からスパルタ教育を受けていた。杖で激しく殴られるなど厳しいもので父親が早世した時に杖の痕を撫でて「死ぬのが遅すぎる」とぼやいたそうである。けれど、彼が即位してまずやったことは帝室・軍部の重鎮で北斉攻略の立役者でもあった斉王憲を誅殺したことだった。武帝時代の旧臣を粛清し、大規模な宮殿を造営するなど奢侈を極め、父帝が恐れた暗君が現実となった。
579年、7歳の息子宇文衍に譲位。自分は天元皇帝と名乗り、天元皇后(楊皇后)・天皇后・天右皇后・天左皇后・天中大皇后の5人を立后し酒色に走り、その翌年に死去。但し、同時に複数の皇后を立てることは、五胡の前趙劉聡の7皇后の例なども見られ、北族の習慣との関連を考慮する必要もある。
また、武帝の宗教廃毀政策(三武一宗の廃仏の第2回目)に関しては、仏教と道教の完全復活にまでは至らなかったが、武帝時代に禁止されていた仏像と天尊像を造らせて、自らと共に南面して安置し、儒仏道三教が並列される様を表現した。但し、これは宗教に対しての涵養の結果とは言えず、遊興の一環であったことは明白である。また、長安と洛陽の二京には『毛詩』の孝養を詠った詩にちなんだ陟岵寺を各一寺、復活させた。長安の陟岵寺には、579年4月に菩薩僧120名が選抜されて置かれることとなった。その名の通り菩薩僧は剃髪せず有髪の僧として国家のために法会を行った。なお、洛陽の陟岵寺は、後の嵩山少林寺である。
酒色遊興のため朝政を省みることがなかった。そのため、政治を皇后の父親である楊堅に壟断させ、楊堅の専制を招いたことが北周の滅亡につながってしまう。後主緯や後主叔宝のように生前に自国の滅亡を見ることはなかったが、史書に従うのであれば、北周朝滅亡の原因を招いた事実は否めないであろう。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 楊皇后
- 朱貴妃(子の静帝によって皇后に追贈)
- 陳貴妃
- 元貴妃
- 尉遅貴妃
[編集] 子
- 静帝 宇文衍(朱貴妃の子、楊皇后の継子)
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