小代氏
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小代氏(しょうだいうじ)は、武蔵国で割拠した武蔵七党の一つ、児玉党を構成していた日本の氏族の一つ。武蔵国比企郡小代郷(しょうだいごう、現在の埼玉県東松山市正代〔しょうだい〕周辺)が本貫地である。
平安時代末期に入西資行の次子・小代遠弘が小代郷を相続し、居住したことに始まる。遠弘の子・小代行平は、治承4年(1180年)に挙兵した源頼朝の下に参陣し、『吾妻鏡』によれば治承・寿永の乱において、源範頼に従って一ノ谷の戦い等で功を挙げ、越後国青木庄・中河保、安芸国見布野庄の地頭職を得た。宝治元年(1247年)に発生した宝治合戦では小代重俊が功を挙げ、同年6月23日付けで肥後国玉名郡野原荘(のばらのしょう、現在の熊本県荒尾市周辺)の地頭職を得た。文永8年(1271年)には小代重泰が蒙古襲来に備える為に野原荘に下向した。
南北朝時代に小代氏は、武家方として活躍し、永徳3年(1383年)には野原荘全体の地頭職を得た。その後、小代氏は菊池氏と対立し、大友氏の配下に入る。天文23年(1554年)、菊池義武が大友義鎮に滅ぼされると小代実忠は豊後・筑後・肥後などに広大な所領を得て、肥後屈指の有力国人となる。
天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友義鎮が敗れると、大友氏は一気に衰退し、肥前の龍造寺隆信が肥後に進出してくる。小代親忠は激戦の末に龍造寺隆信に屈服し、 龍造寺軍の肥後平定に活躍する。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺氏が一気に衰退すると、親忠の子・小代親泰は島津氏に下り、大友氏攻めに加わる。
しかし、翌天正13年(1585年)に豊臣秀吉が大友氏救援を口実にいわゆる九州征伐に乗り出すと、小代親泰は周辺国人らと同様、秀吉の下に参陣し、大幅に減らされてものの所領安堵状を交付された。肥後に佐々成政が新領主として下向して来たが、肥後国人の多くが所領を削られた。これに不満を抱く国人たちは肥後国人一揆を起す。一揆は結局鎮圧され、多くの国人が処分され、佐々成政も改易される。小代親泰は一揆発生時、大坂にいたため、責任を問われることはなかった。肥後は南部を小西行長、北部を加藤清正に分割統治されることとなる。小代親泰は加藤家に仕官し、4135石を与えられ、重臣として遇された。寛永9年(1632年)に加藤家が改易され、細川家が新領主として入府すると、小代氏は細川家に使えた。
- 小代氏の家紋は、団扇に三つ盛亀甲である。
[編集] 史跡
- 青蓮寺(東松山市正代)
[編集] 参考文献
- 「武蔵武士」福島 正義著 ISBN 4878910402