尼子久次郎
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尼子久次郎(あまこきゅうじろう、弘化3年(1846年) - 元治元年12月17日(1865年1月14日))は幕末の志士。本姓は源氏。家系は戦国大名・尼子氏の末裔。諱は久贇。仮名 (通称)は久次郎、長蔵。父は水戸藩士・尼子長三郎久恒、母は神戸信重の女。尊皇志士として国事に奔走し、水戸天狗党の乱にて討ち死にした。墓所は茨城県水戸市常磐共有墓地。位階は贈従五位。
[編集] 家系
尼子氏は宇多天皇を祖とする宇多源氏の家系であり、佐々木氏の支流・京極氏の一族、重臣であった。佐々木高秀の次男・高久の代に尼子を称するようになった。尼子氏は永く京極氏の分家筋という地位から、京極家の重臣として重きをなし、京極氏の領地である北近江半国と出雲国のうち、尼子詮久が北近江半国、その弟・尼子持久が出雲国に住し京極家の領国支配を支えるようになった。 尼子氏の成長は持久の子、守護代尼子清定が山名氏の出雲国侵攻軍を撃退したことによる。これにより能美郡奉行職・美保関代官職を与えられ、これが、大きな軍事的・経済的基盤を形成する端緒となった。但し、あくまで清定は京極氏の守護代であり、その任を忠実に果たした。 しかし、清定の子、尼子経久が4代目として家督を継承すると、経久は出雲国内の荘園を横領したため、主君 主君・京極政経に追放される。経久は翌年、無頼の徒を率いてわずかな手勢で謀叛し、月山富田城を奪取、京極政経を追放して出雲一国を領国化した。この下克上に対して、当初は京極氏の残党が尼子氏に対抗したが、知略に優れる経久の敵ではなかった。経久の嫡男 尼子詮久が遠征中に国人 桜井氏を攻めている最中、陣中にて笛をふいていたところを矢で射殺されるという一大事も発生したが、経久の孫・尼子晴久が後継となった。尼子氏は経久の代に11カ国の領国支配を固め、孫・晴久に家督を譲る際には出雲守護職に補任され、ようやく守護を追放した守護代としての名分から脱することが出来た。しかし、晴久には経久ほどの才はなく、3万もの大軍で安芸国の国人 毛利氏を攻めるも、大内義隆軍を率いた陶晴賢と毛利氏の連合軍の前に破れ、逃走。以降、尼子氏は勢力を弱めた。程なく晴久は病死、家督を継いだ子の尼子義久の代となると大内氏の所領をも吸収した毛利氏に攻められて滅亡。一族は毛利氏に下ったもの、浪人したものなど散り散りとなった。そのうちの一族が水戸徳川家に仕官し、代々水戸藩に仕えた。
[編集] 生涯
武勇に秀で、神発流の砲術に長けた。元治元年(1864年)3月、水戸藩の尊皇攘夷派が藩の親幕府よりの守旧勢力である諸生派を打倒するため、田丸稲之衛門、藤田小四郎を大将に挙兵すると、これに呼応した。これが水戸天狗党の乱のはじまりである。久次郎は高道祖原、水戸の藤柄口にて諸生党と合戦に及んだ。その後、この藩内の抗争を鎮めるため、藩主目代として水戸藩支藩主である宍戸藩主・松平頼徳が水戸に下向すると、久次郎ら天狗党も頼徳軍を援護して戦った。しかし、久次郎は部田野原の戦いで負傷し、同10月23日に天狗党の将・榊原新左衛門が幕府軍に降伏すると、久次郎もこれに従った。久次郎は久留里藩に禁固となり、同年12月17日、戦傷のために獄中に亡くなった。